「吾妻鏡」と伊達郡国見町 「阿津賀志山の合戦」~中世最大の戦い~  VOL.17

太田町長と説明いただいた大栗さんと右手前阿津賀志山土塁の断面図

国見町太田町長様と          酷暑の中案内いただいた大栗さん。右奥は阿津賀志山   土塁の断面図・左が鎌倉軍、右が奥州軍

阿津賀志山と手前土塁土塁から藤田国見を望む中尊寺蓮2

阿津賀志山土塁跡と中央の阿津賀志山  土塁の上から国見・藤田を望む。右に藤田城跡・源宗山、源頼朝が本陣を置いたとされる

中尊寺蓮奧州道中国見峠長坂跡下須房太郎秀方

藤原泰衡の首桶に残っていた蓮の種が平成10年に開花。国見町では平泉から平成21年に貰い受け育てている。

旧奥州道中 国見峠長坂跡
石名坂で敗死した佐藤基治等一族の首級は、この先の経ヶ岡の地に晒された。
芭蕉も通った「奧州中道」、私もいろいろな思いを抱いて歩いた道でした。旧奥州道中 国見峠長坂跡

阿津賀志山大木戸の本城で鎌倉軍と戦う下須房太郎秀方、僅か13才での討ち死にであった。
金剛別当秀綱の息子とあるが、奥州藤原氏の家系図には、藤原泰衡の子として載っている。養子になったのかも知れない。
阿津賀志合戦、美少年第一等、悲劇のヒーローである。

 

(1)伊達郡「国見町」中世最大の古戦場跡へ
「吾妻鏡」(あづまかがみ)という鎌倉時代に書かれた歴史書があります。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの事績が記載されています。
その「吾妻鏡」の中に、奥州平泉藤原氏の4代藤原泰衡を総大将とする「藤原軍」と源頼朝が率いる「鎌倉軍」が戦った奧州合戦の最大の激戦地の事が書かれています。その場所は福島県伊達郡国見町にあります。今から827年前、頼朝軍を迎え撃つために築かれた防御防塁「阿津賀志山防塁」の一部が今も残っています。
ここ「阿津賀志山」の合戦は、東北大学の入間田宣夫先生によると、
「阿津賀志山合戦に参加した実際の兵員の数は、両方併せて、3万騎ぐらいと見てよいのではないかと思います。しかし、この3万騎という数は、あの『関ヶ原合戦』にも匹敵する様な非常に大規模な、たくさんの人数が参加した壮大な合戦であったことを示しております。日本の中世では最大の合戦であったと考えられるのであります」

私は今まで、全く違う目的で「吾妻鏡」を読んでおりまして、「阿津賀志山防塁」の存在を知ってはいても、あまり興味も抱かず、詳しく知ろうとしませんでしたので、偉そうなことは言えませんが、一度は中世最大の古戦場に立ってみたいという強い思いが働きました。
今回、国見町教育委員会生涯学習課の大栗行貴さんに現地を案内して頂きました。
7月の頭に「阿津賀志山防塁」の資料が欲しいと、大栗さんに連絡したところ、資料をお送りいただいたのですが、郵便局の手違いで戻ってしまったようです。それならと実際にお伺いすることにし、8月の13日土曜日の午後、お目にかかり説明を受けた後、現地を丁寧にご案内いただきました。大栗さんは「阿津賀志山防塁」など、考古学の若手研究家です。
国見町の太田久雄町長さんにもお目にかかりました。拙著「春のみなも」贈呈の御礼にと、特産の桃をお土産に頂きました。大ぶりな「川中島」は瑞々しく美味しかったです。ありがとうございました。

さて、私の目の前に拡がる阿津賀志山の夏風景は、頼朝自ら兵を率い、藤原軍と合戦に及んだ場所とは思えない穏やかな景観でした。
今やその防塁は、東北本線、東北新幹線、国道4号、東北自動車道などに分断され、さらに耕作や用水路などによって地形が相当に改変され、水田畦畔・畑地・果樹園などに変わり、断続的に土塁状の地形の高まりや段差を残しているだけなのですが、それは平泉とは大きく違います。
芭蕉は、奥州藤原氏の滅亡、英雄源義経の終焉の地、平泉に立ち「夏草や兵どもが夢の跡」という感傷の句を詠みましたが、その趣とここ阿津賀志山の風景は全く異相します。
命を賭け戦い、燃焼しきった後の「安穏」と「静寂」は、厳しい夏の陽射しの中ですっくと伸びる稲の茎と葉に移し込まれているのでしょうか。八百数十年の長い時間の経過は夢の如くです。
土曜日の午後、この日もうち続く猛暑は収まらず、国見町は暑かったです。
貴重なお時間を頂いた大栗さんと太田町長さんには改めて御礼を申し上げます。

(2)「吾妻鏡」と国見「阿津賀志山」
「吾妻鏡」のその部分の記載を現代語訳にして一部記載してみましょう。(「吾妻鏡」4.奧州合戦 吉川弘文館)
文治5年(1189年 )8月7日 甲午
「二品(源頼朝)陸奥の国伊達郡阿津賀志山にほど近い国見の駅に着御す。ところが夜半になって雷鳴が轟き、御旅館に落雷があり、皆恐怖を感じたという。
藤原泰衡は、これまでに頼朝が出陣したことを聞き、阿津賀志山に城壁を築き、要害としていた。国見宿と同山との間に、にわかに口が五丈(15メートル)もある堀を構え、逢隈河を堰き入れて柵となし、泰衡の異母兄の西木戸太郎国衡を大将軍とし、金剛別当秀綱とその子下須房太郎秀方をはじめとする二万騎の軍兵を付けて派遣した。(こうして)山内の三十里は軍勢で充満した」
吾妻鏡に記載のある阿津賀志山の城壁は全長3キロにわたつて帯状の堀と土塁が築かれ、一重と二重、三重の土塁跡が発掘されています。堀の深さは3~4メートル、堀の全体幅も「口五丈」というように15メートルの規模です。専門家によると、これら土塁の構築と大将軍藤原国衡が護る大木戸の本城の工事など、総計40万人の人夫が動員されたということです。
また奥州信夫郡(現在の福島県福島市飯坂地区)に勢力を張り、大鳥城(現在の舘の山公園)を居城とした佐藤基治は、頼朝の鎌倉軍と「石名坂」の上に陣を築き対峙しました。基治は源義経の従者佐藤継信・忠信の父です。これら城壁陣屋の建設などに注がれた人夫の数は述べ5~6万はくだりません。実に福島市以北の全てが奥州軍と鎌倉軍との直接対決ラインでありました。ただ残念なことに 「石名坂の戦い」の場所は、現在の福島市平石、もしくは飯坂と未だに諸説が別れていて特定できていません。
尚この戦いで、頼朝軍の先兵として佐藤基治と戦った常陸入道念西、後の伊逹朝宗は戦いに勝利し、頼朝から伊達郡を貰いその子孫の伊逹政宗に引き継がれ、秀吉の奥州仕置きによって、仙台に移封になるまで、この一体を支配したというわけです。
伊達政宗の祖父・祖母は現在の福島県庁の「福島城」を隠居所として使っておりました。祖父母に可愛がられた孫の政宗の信達地方に対する思い入れは尋常ではなく、関ヶ原の戦いの直後、慶長5 年(1600年)10月6日、伊達政宗は本庄繁長が立て籠もる福島城を奪おうと、青葉山(信夫山の古名)の麓に陣立てするも、須田長義にも攻められ、不覚をとり白石に撤退しました。これを「松川の合戦」といいます。
現在の仙台「青葉城」の名称は、政宗が遂に成しえなかった郷愁と屈辱の心象風景なのです。

(3)頼朝のねらいは平泉にあらず、朝廷に対する圧力と全国制覇
頼朝のねらいは、奥州平泉を平定するというのは表向きで、鎌倉幕府の全国完全制覇のための総仕上げとして「奧州合戦」が位置づけられました。鎌倉、頼朝軍からみれば「奥州征伐」ということになります。
「吾妻鏡」は勝者、鎌倉幕府の記述であり、都合のいいことが多く記載されていますが、総合的に判断しても頼朝の凄さが判ります。後世の徳川家康が、頼朝を尊敬し「吾妻鏡」を熟読したことも頷けます。
頼朝はそれぞれに癖のある、しかし能力のあるブレーンを上手に使いました。
元京都の下級官僚の大江広元、三善康信をはじめとして、大庭景義・八田知家・千葉常胤・和田義盛・比企能員・梶原景時らのメンバーです。
残念ながら、頼朝亡き後の土台は北条一族によって抑えられ血筋は途絶えますが、その辺りも家康は見事に学習しています。やはり武家政権の全ての見本は「源頼朝」なのです。
また、後白河上皇は、頼朝の前に立ちはだかる最大の策略家で「大天狗」と称された人物です。
しかし遠く鎌倉にあった頼朝は、上皇の宣旨を俟たずに、日本国66カ国の内、平泉の奥羽、出羽を除く64カ国の武将達に対して、「奥州討伐」参戦の日本史上最大規模の命令を発しました。
薩摩はじめ南九州の豪族まで根こそぎ動員され、はるばると国見の「二重堀」まで手弁当でやって来たのです。その見返りは、頼朝からの領土安堵・官職などの褒美です。不参加者は領地を取り上げられ、財産没収というわけです。
もはや頼朝にとって、勝つことは当たり前、その目的は全国の武士達を総動員して、奥州平泉の地で勝ちどきを上げることです。奥州平泉の藤原氏の存在は頼朝にとって「生け贄」でありました。政治の厳しさ、頼朝の政治家としての冷徹な意志が判ります。

(4)秋の尾花 色を混え、晩頭の月、勢を添ゆ
頼朝軍は、軍勢を三つに分けて、頼朝自身は大手軍として中路(奥州道中)より、太平洋側からは千葉常胤を総大将とし、また北陸道からは比企能員からと、それぞれの地を靡かせて平泉に向かいました。
阿津賀志山の戦いを終えた頼朝は、一週間ほど陸奥国の行政の中心「多賀城」に駐屯し、念入りな作戦を確認し平泉を目指しました。
9月4日、奥州軍を一掃した、三軍全てが、紫波郡陣岡(岩手県紫波郡紫波町)に集結しました。諸人の郎従らを加えた全軍は実に28万4千騎と想像を絶する大軍となったのです。
吾妻鏡にいう。
「それぞれに白旗を打ち立て、おのおの弓に倚せおいた。秋の尾花が色を混じえ、晩の月が勢いを添えていたという」
同6日、藤原軍の総大将泰衡の首が陣屋に持ち込まれました。

頼朝は、治承4年(1180年)8月17日に挙兵した後、11月の17日に常陸の佐竹との戦いに勝って以来、木曽義仲を討ったときも、平家を追討したときも、自らは戦場に立つ事はありませんでした。
この挙兵の戦いを除くと、「阿津賀志山の合戦」は西は九州から東は奥羽まで統治するための頼朝の総仕上げの戦いで、先陣に立った最初で最後の戦いでした。
承久元年(1190年)頼朝は初めて京都に赴き、権力者後白河上皇と面会し、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられました。これにより朝廷から独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれたわけです。
何と壮大な、頼朝の政治的野望が展開されたことでしょう。
そして阿津賀志の合戦で戦い散った、多くの武者、若き武者達の戦いぶりを交えて、殆ど知られていない壮大な合戦の背景にある人物の悲哀と、息遣いを書きとめられたら面白いなとおもっています。物書き春吉の独り言です。

平成28年9月6日    春吉省吾

 

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令和5年1月現在、全日本弓連連盟・錬士六段、全日本剣道連盟居合・錬士六段。40歳を過ぎて始めた「武道」です。常に体軸がぶれないように、手の内の冴えを求めて研鑽は続きます。思い通り行かず、時に挫けそうになりますが、そこで培う探究心は、物書きにも大いに役立っています。春吉省吾

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