「心身経営学」とは何か、13年前の「2009.心身経営学」開講時のレジメ
はじめに
このレジメは、今から13年前「2009・心身経営学」開講時に、参加者の方々にお渡ししたものです。
この講座のレジメ〈哲理編・技法編〉は、講座参加者にしか配布していません。
13年間封印したものです。
13年経った今、社会環境は激変しました。しかしこのレジメをお読みになった方々は、私の根本哲理は「現在の混沌を解決する哲理」だと思うはずです。
13年前の事象で、例えば「CRPソフト(業務統合ソフト)」など、今ではあまり聞き慣れない言葉が出てきますが、現在のITを活用した総合業務システムソフトの発展段階と思ってください。
現状(2009年)をこの様に考える
現在、世界中の超大企業から、我が社のような零細企業にいたるまで、あらゆる企業が市場を読み切れず明確な戦略策定ができないという。つまり様々な「技法」によって戦略案は作成されるが、そのどれもか効果を現さない。あるいは効果を上げても成果予測のレベルまでは遠く及ばない。競争は熾烈をきわめている。どの分野も早晩流通システムが大きく変化せざるをえない。
世界中の情報の氾濫で、その影響は誰もが避けられない時代になった。
1.販売計画を実行しても、商品が売れない
2.市場細分化で顧客ニーズを満たせない
3.ベンチャー企業の動きによって、市場全体が大きな影響を受ける
4.ネット情報によって、商品の売れ行きが大きく変わる
5.成功事例を模倣しても、ヒット商品を生み出せない
6.最新の手法で市場予測出来ない
7.顧客ニーズがつかめない
何れにしても、これは一過性のものではなく、これらの現象が将来にわたって続く「市場」の通常の姿ということになる。
世間一般では、これらの現象を「複雑系」というパラダイムで捉えているが私はそのアプローチはとらない。(理由はそれでは本当の「解」にはたどり着けないからだ。講座を受講していただければわかる)
このようになった原因そのものは私の言葉で言うと「市場そのものが意識を持った」と表現しておこう。あたかも人間の深層の意識のように。
市場そのものが感情を持った生き物のようになるということは、定理や定義を設定する事のできない世界にあるということなのだ。
最新の数学の手法は、最初に定義付けを行わず、無定義のまま仮定する、いわば仮説の積み上げで公理を導き出す。従来自明の理とみんなが思っていた公理が、真理ではなく、一つの仮定であるということが明らかになった。それが非ユークリッド幾何学である。
つまり、我々が戦略思考に基づいて意志決定しようとしている様々な「経営策」はすべて仮定の下に決定されたものであって、絶対はない。
こう話すと、理論的な意志決定論など意味がない。そんなことを学習する必要はないと仰る方がいるが、とんでもない。論旨が全く違っている。
単なる技法のための技法はだめ
MBAを始めとする様々な意志決定のための技法は「漠とした市場空間(仮定の下ではあるが)対象を絞り込みすることである。万一それがモレやダブリと判明した場合、素早く軌道修正するために欠かせないツール」なのだが、それらの技法は、市場ニーズの傾向を示唆する資料ではあるが、絶対的なものではないということである。
意志決定の情報の一つとしてあるに過ぎない。その情報を得て意志決定するのは、あくまで「意志決定者である貴方」だ。
しかし、すべての要素が仮説なのだから、それによって決定した結論はあくまでも「仮定」なのである。
その意昧では、巨大企業主導によるグローバリゼーションが進んだアメリカの経営者達にこれから起きることが見通せて、日本人の経営者にそれができないというそんな馬鹿なことはない。
ただ、日本はアプローチの仕方がはなはだ悪く、自主性をもてず、自信を喪失してしまった。〈筆者註・2009年の米欧及び日本の経済は、年度ベースで経済成長率の推移を見ると、バブル崩壊後の日本で一番ひどい年が1998年で、実質成長率はマイナス1.5%だった。日米ともに、2009年はこれに近い状態になった。〉
かなり恢復には時間がかかるが適正な措置(体系的な学習といっておこう)をすれはそれは立ち直れる。しかし、その措置とはハウツウや借り物のシステムでは得られない。〈筆者註・現実には、「適正な措置」を政府・財務省・日銀は取らなかったというのが「歴史」の現実〉
要するに、当たり前だが、情報そのものは意味を持たない。情報を意味あるものにするためには処理加工をしなければならない。ここが意志決定に寄与する情報にできるか否かの問題を孕んでいるもっとも大事な部分なのだ。
意昧ある情報とは何か、情報それ自身がどんな意味を発しているか、という絞り込みができなければ、膨大な情報がかえって意志決定者の識別力や判断力を奪ってしまう。何とも皮肉な現象だ。
CRPソフトを導入することによって効果を得られるのは、柔軟性のある組織、情報公開の進んだ、意志決定の果断な企業だけである。特に、深い洞察力と教養を持ち、柔軟な思考と果断な意志決定能力(情報識別力に)を持った経営者が率いる企業のみである。
経営環境の変化に対応しようしても企業そのものが旧態依然とし、硬直した組織であれば効果はほとんど期待できない。導入を契機に経営革新や新しいビジネスチャンスを掴もうとする気持ちは分かるが、目的と手段をはき違えている。
表層だけの現象を追いかけ、小手先の利益誘導をしても、企業はどうにもならない。それを率いるのが経営トップということになるが、今後益々その重要性は増す。
洞察力、大局観を身につけ、説得力を身につけ行動や意志決定に責任を持つことが重要なのだが、その能力を自己のものにするには生涯学習、生きた学習が必要になる。だからアッという間にマスコミに担がれ、時代の寵児となった若き起業家達などは、成功したと思ったその瞬間から忽ちにして奈落に堕ちる。
それは「自己哲理」持っていないからに他ならない。
華やかに見えても薄皮一枚の「成功」では、成功とはいえない。それは単なる僥倖である。
では「自己哲理」とは何かということになる。
以下、順序だてて説明しよう。
自己哲理ということ
グローバリゼーション、グローバルスタンダードという言葉を、呪文のように唱えて、何でも欧米と同じ様な基準に習うことがその意味だと思っている。それはかなりおめでたい。
市場ルールは大きな一つの世界標準に収敏されるが、グローバルスタンダードを「世界標準」と表面的に読むのではなく、その世界標準のもとで、恩恵を受け覇者になるには「個性化」を一層際だたせることという絶対条件が付帯する。つまり、国家・民族の持つ自らの文化的思考を活性化された形で、哲理化し、それを維持している民族が、はじめてグローバリゼーションの恩恵に預かることができる。
企業であれば明確なビジョンを持ちそれを十分に咀噛している企業のみがその恩恵をこうむることができるというものだ。
これがなければ、忽ちにして、取り込まれて、憂き目を見る。
グローバルスタンダードを標樗するならば先ず自分が(企業が)どの様な文化的「知」の蓄積があり、その文化が澱んでいないか検証しなければならない。「文化」とはそのままにしておくと居心地はいいが、澱んでいることに自覚症状がないから厄介なのだ。
また「文化」は他との相異をはっきり意識し自覚して初めて「活きた文化」となる。それを持っているものだけが、グローバルスタンダードを勝ち抜くことができるということだ。
〈この根本を忘れた(いや考えもしなかった)日本が、グローバル金融資本・グローバル・デジタルIDを牛耳る組織に徹底的に、富と大切な「文化」を剥ぎ取られ、今や奴隷に落ちようとしている。気づけよ!! もっとも13年前に私が主張しても、それに気づく人間は皆無に等しかった。やられたね。13年前、私自も「グローバルスタンダード」の認識は、まだまだ甘く、「変容」それも、「フランクフルト学派」(変容共産主義)という、共産主義・全体主義をヴェールで覆い、我々の生存権にまで、侵攻してくるとは予測が及ばなかった。
甘く考えていたが、現在は、そのような段階を通り越してしまった。〉
資本力の高い多国籍企業にとっては、「国家」や民族の持つ「文化」の壁は、世界中から儲けようとする彼らにとっては「障害」でしかあり得ない。採算コストを考えれば、コスト安の後進国、新興国にシフトするのが儲けが多い。自国の産業や農業が停滞するといったデメリットが顕著になる。
つまり自国民の雇用機会喪失や、利益が増加した分、彼らにとって政治的に都合のいい資金が増える。その資金が賄賂に利用される懸念も存在する。
経営戦略と意志決定
一般に経営戦略に基づいた一連の技法とその実践を上手に成し遂げるためには、常に正しい意志決定を伴なう。つまり、「経営戦略」と「意志決定」とはコインの裏表、光と影のようなもので分離不可分なものなのである。
経営戦略の技法は容易に学ぶことは出来るが、それを使いこなす「意志決定」に関しては技法だけでは捉えられない。その国の歴史を踏まえた文化、それは正しく整理しなおされた思想・哲学・宗教のエキスを注入されたものでなれば、「意志決定能力」を高めることが出来ない。
最初にお断りしておくと、目先の「利益」を得るだけなら、「心身経営学」講座においでいただくまでもない。従来型のハウツー講座で十分。しかし、中長期に企業と経営者自身の成長を考え、しっかりと土壌と幹を作るためには「心身経営学」講座で学ぶことが必要であるという自負を持っている。(当然、短期的にも成長するのだが)
その心身経営学の5つの骨格は以下の通りである
1.前提となる意志決定は「経営戦略」上のそれである。両者は不離のものである。
2.「日本的良知」をベースとした意志決定論である。
3.その仮説の前提となる哲学は、弘法大師・空海、道元禅師、あるいは法華経に代表される「宇宙観」「時空論」などの哲学的フレームである。それはアメリカン・ハウツー理論=プラグマディズムを完全に駆逐し、真の直観力を自得することができる。このダイナミックな思想は日本再生のための根本思想となるはずである。〈2021年から「量子力学」をいろいろと囓っているが、今後その思考方法も有効利用できるかも知れません〉
4.さらに、儒学(朱子学、陽明学を含む)など我々にしっかり馴染んでいる思想を援用するが、洋の東西の思想・哲学、あるいは心理学、生物学などあらゆる「学」を援用することにやぶさかでない。
5.これらによって形成された仮説は「神道」的感覚によって統合される。
以上が「心身経営学」の基本骨子である
なかには現段階で全く理解いただけない事項や項目があるはずである。当然であろう。
初めてこの文章を読まれた方は、一体何なのか全く判らないはずである。「日本的良知」とか儒学、陽明学はまだしも、「神道」と記載しただけで、アレルギー反応を起こす人もいるはずだ。
しかし、化石化した左翼的文化人のみならず、誤解と誤認によって冷静な言葉の定義すら理解できていない人がほとんどのはずである。これは何とも不幸なことである。正していかなければならない。
1~5に関して
1.前提となる意志決定は「経営戦略」上のそれである。
あなたが出かけるときにどんな服装をしていくか、などとクローゼットの前で、長考するご婦人もいらっしゃる。それも意志決定の一つだか、ここでは「経営戦略」上の意志決定に限定する。
2.「日本的良知」とはどんなことか?
たとえば陽明学の「良知」は「慮(おもんぱか)らずして知り、学ばずして能くする」とあり、考える必要もない当たり前の知である。
ここでいう「日本的良知」とは、日本人が文化の蓄積によって本来持っている良知である。
知識は行動に移さなければ、宝の持ち腐れであり、実行できないアイデアや思想は単なる空想の産物である。意志決定に必要なのは「良知」そのものなのである。
但し、大きく変質、いや変節してしまった日本的文化を「日本的良知」として蘇生させるには、過剰に神秘的鎧をまとった仏教、言葉で飾りすぎだ朱子学、秘伝の伝授などわざとらしい神道、何れもそれらの虚飾を一切取り去った本質の部分を取り出す必要がある。
3.意志決定能力開発のベースになる哲学は?
日本人の文化的基礎になっている哲学(それは明確に意識している必要はない)といえば、「仏教哲学」である。
ここでいう「仏教」とは日本の宗派仏教を指すのではない。
私がターゲットにしている思想は、大乗仏教の理論形成の「空」「因縁」「因果」の一連の仮説的因果律のことであり、「唯識」という無意識下の阿頼耶識(あらやしき)の種子の薫習(くんじゅう)という働きを応用することである。
ここではある文章の一片を紹介する。
「人間も、それを取り巻く自然(環境と置き換えてもいい)も、すべては移ろいやすく、その瞬間瞬間様々な要素が仮和合しているだけであって、不変・実体的なものは何一つない。それが「諸行無常」であり、「諸法無我」と言うことの意味である」(多川俊映師:唯識十章)
私がこの中で応用している、「移ろいやすい」「諸行無常」「諸法無我」とは従来考えられているような使い方ではない。これらの言葉を一切の誤解、虚飾を取り除き「解放系」の実践的哲学として再生できればパワフルな基幹思想として生まれ変わる。
また、これからの実に厳しい時代を生きていかねばならない経営者達の心の癒し、精神の安定をもたらす哲学・思想は、これら「唯識」の中から見いだすことができる。(解説がないと難しいが、大丈夫)
4.その理論が開放系かつ実践的であれば全て取り組む
儒学の中核となる「論語」の中でも、孔子が明確にしているとおり富への欲望を肯定している。(無条件で肯定はしていないが)
「子曰く、富と貴きは、人の欲するところなり。その道を以てこれを得しにあらざれば処らざるなり。貧と賎しきとは是れ人の悪(にく)む所なり。その道を以て之を得にしあらざれば去らざるなり」(孔子が仰った、富と高い身分は誰もが欲するものであるが、仁や義などの徳のある良い行いで得たものでなければ、その富や地位に安住はしない。貧乏や低い身分は誰もが嫌うものであるが、仁や義などの徳のある良い行いの結果そうなったのであれば、貧しい境遇のままでいい)(里仁第四)
経済行為の実践は倫理的な問題として考えられ、たとえば渋沢栄一のように富を得る方法と目的とを倫理化することによって商人のアイデンティティを確立したように、その理論が解放系かつ実践的であれば、「論語」であろうと「近思録」であろうと、欧米のものであろうと援用する。
また陽明学の「事上磨錬(じじょうまれん)」の様に我々日本人の行動規範に深く根ざしている実践論を活かすことである。
私の提唱する「哲理」はそれができるシステムなのである。
5.これらによって形成された仮説は「神道」的感覚によって統合される
この最後のフレーズに驚かれた方も多いだろう。明治以降の国家神道の意味での「神道」ではない。敢えて申し上げると「原始神道(原初神道・古神道)」とよばれるものである。
鎌田東二氏の言葉を借りれば「日本人のほとんどの人にとって『カミ』は概念ではない。
概念で表現できるのは『カミ』のほんの一部にすぎない。日本人にとって『力ミ』は『超越者』でも『全知全能者』でもない。『無からの創造者』でもなければ『絶対他者』でもない」
ラフカディオ・ハーンの言葉を借りれば、「『この大気そのものの中にいる何か』なのである」と言っている。
西行法師が伊勢神宮を仰ぎ「なにごとのおはしますかはしらねどもかたじけなさになみだこぽるる」という感性と同じである。
前述のラフカディオ・ハーン、日本人より日本人の感性を捉えることに巧だった小泉八雲、このギリシャ生まれのイギリス人が「神道」を仏教や西洋思想と比較してこう記述している。
「仏教には万巻に及ぶ教理と、深遠な哲学と、海のように広大な文学がある。神道には哲学がない。体系的な倫理も、抽象的な教理もない。しかし、そのまさしく『ない』ことによって、西洋思想の侵略に対抗できた。東洋のいかなる信仰もなし得なかったことである」
まさに「哲学がない」ということによって「神道」を中核に据えた仮説はあらゆるものを取り込むことが可能となるのである。
1967年イギリスの歴史家、アーノルド・トインビーが伊勢神宮を参拝し次のように毛筆で記帳した。
Here,in this holyplace,I feel the underlying unity of all religions.(この聖地において、私は、あらゆる宗教の根底的な統一性を感得する)
世界救世教の岡田茂吉が「日本は文化の組み立て工場だ」と言ったというが、世界の文化を日本の骨組みに適合させて組み立てることができるのは「神道」的体系が一番適している。
世界の文化は自ずと「神道」的仮説の統合に収敏されるはずである。その理由はハーンとトインビーがすべてを語ってくれている。
どの国にも文化の蓄積はある。それらの長所をどの様に活かしどの様に発展させるか、それ富永仲基(とみながなかもと)がいみじくも「加上(かじょう)(くせ)」と呼んだように、余計な装飾が施されてしまったことを認識しそれらを修正すること以外にない。自らの伝統文化を否定してグローバル化が図れるとも思わない。こんなことを強引に押し進めれば、国も、国民も、企業も忽ちのうちに滅んでしまう。〈今や13年前の危惧が、本当になってしまいそうだ。何時までも惰眠を貪っていると、命が危うい。残念だが、日本政府は全く信用できない。もう判れよ!!〉
以上「心身経営学」の全体フレームを説明した。
そして、これらを統合した思想体系を心身経営学の「哲理」と呼ぶ。
内容的には、かなり高度であり、あるいは読者にとって未経験の分野のこともあり、「神道」と聞くと反射的に国家神道=軍国主義という、パブロフの犬的反応もあって拒否反応を起こすかも知れない。しかしここでいう神道の概念は決してその様なものではない。できれば「神道」という言葉は使わないで説明したいがそれに代わる言葉はない。例えば「古神道」と言っても、かえって判らなくなるだろう。
是非、「心身経営学」講座に参加されることを希望する。今は難しいと感じても、講座が進めば、自ずと腑に落ちるはずだ。周囲を見回してもこれだけの内容をわかり易く解き明かす講座は無いと確信しているから。
2009.9.19 心身経営学基本講座講師
株式会社ノーク代表取締役
Ⓒ 佐藤祥一(春吉省吾)
注意とまとめ
●13年間封印した、講座の原稿の最初の部分です。この時の講座のレジメ〈哲理編・技法編〉は講座参加者の方のみに配布しました。一度封印しましたが、時代が必要としているようです。
本文にはCRPソフトなど「時代的」な言葉も出てきますが、私自身の思想の根っこは些かもぶれていないという思いを強くしています。
●〈〉内は、今回補足的に追加した文である。2022.11.25
●「心身経営学」と言う私の造語の「心身」とは、道元禅師の使う「身心脱落」の「身心」とは文字が逆です。
ちなみに禅師は、宋に渡り、天童山の如浄禅師のもとで修行をしました。ある日、如浄は雲水の一人が坐禅中に居眠りしているのを見て「参禅は須く身心脱落なるべし。只管に打睡して什麼を為すに堪えんや」と大喝して警策を加えました。その言葉を聞いて道元は、豁然大悟したと伝えられています。
●意志決定と「意志決定」について
「意志決定」「意思決定」(decision making )。現在、後者の「意思決定」の方が多く使われている。広辞苑によると「意志」の方には「ある行動をとることを決意し、かつそれを生起させ、持続させる心的機能」とかなり詳しい説明があるのに対し、「意思」についての説明はきわめて短い。心理学的領域においても特別の約束はない。私にとっては、心の意識が、より強く行動にリンクするという「意志」の意味を重視し、ここでは「意志決定」と記載する。
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