身近な町の風景に思うこと

 

祓川

10月26日日曜から28日まで福島を訪れました。弊社の業務と、「福島県中小企業家同友会」という県内の中小企業経営者・承継者を対象とする講演会の下打ち合わせのためです。
 予定の入っていない日曜日の半日、県立図書館で、和綴りの資料を丸ごと一冊コピーしてきました。小説の重要な資料となるもので、古本屋でも見つけられず、「やった」という感じです。
 小説執筆の下準備をしている時、核になる資料を見つけた瞬間「何とかいける」と不思議な手応えを感ずることがあります。一つの長編小説の仕上がりまで、そういう感覚が多ければ多いほど、作品の密度は上がります。今回もそういう感触を得ることができました。
 大分寒くなった福島で、3日間、市内を電動自転車で動き回りました。自由に町を走ってみると、随分と店や家々の佇まいが変わったなと改めて思いました。東日本大震災によって、土蔵作りの建物はほとんど見られなくなりましたし、放射能汚染・除染によって町の景観も変わりました。

 今回は、福島市の歴史の中で重要な役割を果たした場所を写真と一緒に紹介したいと思います。
 その一つは、「祓川」。関ヶ原の戦いの直後、伊逹政宗は、伊逹家発祥の地、信達地方への執着と勢力拡大のために、上杉支配の福島地方に攻め入ります。その本陣は、信夫山の麓、愛宕山から黒岩神社の麓です。直ぐ下には松川が流れていました。祓川はかつての松川の流路で、「松川の戦い」の舞台でした。また、信夫山の山岳信仰が盛んだった頃は、信仰者はこの川で身を清めていたのです。(現在の松川は信夫山の北側を流れています)今は小川と云うよりは用水路に近い趣ですが、当時の松川は暴れ川でした。
 政宗は本城繁長を追い詰め、福島城に閉じこめ、会津からの上杉軍と曾根田・小山新井・五十辺あたりで有利に戦いを進めましたが、梁川城主須田長政の奇襲で愛宕山本陣を横から攻められ撤退をよぎなくされたのです。伊達政宗の油断でした。
 徳川家康と交わした「百万石の御墨付き」もフイになり、二度と福島の地を奪還することはで来ませんでした。

 二つ目は、大原病院移設新築のため整地をしていたら、福島城の遺跡が出て来たようです。実は私の実家の真ん前がそうです。写真は実家の3階から撮影したものです。この辺りは、福島藩板倉家支配の時には「辻の札」があった町の中心部です。
 この場所は板倉時代の古地図によれば外堀だったはずですが、毎月帰福する度に、発掘作業を真上から眺めていると、どうやら外堀だけではないような気がします。
 過去の福島は文化財をないがしろにしてきた歴史があります。病院建設も大事でしょうが、中途半端でなく、しっかりと発掘調査をして欲しいものです。
 かつて旧日本銀行福島支店も、旧勧業銀行福島支店もあっけなく解体されてしまいました。(それぞれ昭和53年、昭和50年解体)現存していれば、辰野金吾設計のレンガ造りの建造物が、半径70メートル内に2つという日本で唯一の市となる事ができたのですが……。

 福島城は、主郭(本丸)のない平城ですが、私はそのことにとても興味を覚えています。郷土史家の方々は、そういう発想を誰もしていないのですが「広大な内堀、外堀があるのになぜしっかりした城が作られなかったのか」と考えるとそこには統治していた為政者達の確執・欲望・財政事情をはじめ、人間の心の内側が見えてきます。 
 蒲生氏郷の客臣として5万石で福島城主となっていた木村吉清は、かつて豊臣秀吉の側近の一人でした。城持ちになりますが、一揆を収めることが出来ず、秀吉の怒りを買い、それを氏郷が宥め客臣にしたという経緯があります。家臣とは違う扱いでした。
 会津黒川に本拠を置いた氏郷は、黒川城を「若松城」として拡張します。命を受けた木村は砦の様な杉目城を大改修し、福島と命名しそれなりの城を造営したと想像しますが、全く資料が残されていません。その木村は文禄3年(1594年)に福島を去って上洛し、翌年の文禄4年2月に蒲生氏郷は急逝します。同じ年の5月、秀吉は浅野長政、行長親子に福島城の取り壊しを命じています。そのことから見て、木村の時代にはしっかりとした「城」はあった筈なのです。
 寛文4年(1664年)上杉綱勝が急逝し、米澤に移封になり、その後福島は15年間幕領となり陣屋が置かれました。
 延宝7年(1679年)大和郡山城主本多忠国が福島に移封してきます。
 本多家の祖である、本多忠勝は徳川四天王の一人、無城の福島は本多家にとっては大いなる屈辱で、福島城・桑折西山城の青図が急ぎ作られます。当時の福島には、1000人以上の本多家臣団を住まわせる住居もなく、急ぎ小屋掛け普請をしなければならない始末でした。移封のための引越借財は、大阪商人からの借入でしたが、立派な築城は必須の事項でした。しかし天和2年(1682 年)本多忠国は、姫路に移封となり、築城計画は頓挫しました。以降、堀田家、天領支配を挟んで、板倉家が維新まで福島を支配しますが、城が作られることはありませんでした。
 現在我が実家の前で行われている発掘作業から、ひょっとして本多家が支配した時代の「遺跡出現」という可能性もあるのです。
 人の作る歴史は、あっという間に全て風化するか、あるいは上辺だけ残ったとしてもほんの一欠片です。僅かに残された資料あるいは遺跡から当時のことを推理するとしても、それが果たして正しいか否かは誰も断定できません。
 イギリスの歴史家、EH・カーは「歴史とは現在と過去との絶え間ない対話である」(An unending dialogue between the present and the past.)
と述べていますが、福島の「祓川」「福島城外堀遺跡発掘」という風景にも、過去と現在が複雑に繋がっていているのだなと思う次第です。

福島城外堀

冒頭の写真は、福島県立図書館に続く路です。なかなかおもむきがあります。

この写真は、我が実家の三階からみた、遺跡発掘の風景です。

 

 

 

この写真は福島の道路原票です。「万世大路」の福島の起点です。

福島市の道路原標

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令和5年1月現在、全日本弓連連盟・錬士六段、全日本剣道連盟居合・錬士六段。40歳を過ぎて始めた「武道」です。常に体軸がぶれないように、手の内の冴えを求めて研鑽は続きます。思い通り行かず、時に挫けそうになりますが、そこで培う探究心は、物書きにも大いに役立っています。春吉省吾

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