新刊「秋の遠音」はノーク出版ネットショップから購読を!

「秋の遠音」をはじめ、春吉省吾の書籍はノーク出版ネットショップからお求めください。四季四部作・歴史時代小説シリーズ完成を記念して、お得なキャンペーンを実施しております。 
さて、新型コロナウイルスのワクチンの開発が急務となっていますが、「コロナ禍」によって日本人の「心のワクチン」の不在が顕著になりました。
そのワクチンは、ずばり、春吉省吾の四季四部作・歴史時代小説+「風浪の果てに」をお読みになることです。
冷静な時代認識の長編歴史時代小説の威力で、短編では決してなしえない効能が得られます。また高度成長下の長編時代小説とは、その視座が大きく違っていることに驚かれるはずです。
特に、新刊の「秋の遠音」をぜひ読んで欲しい。主人公吉村春明は、慈悲心と凜とした精神力を持ち、様々な難局に立ち向かいました。読み進めると、外連のない「意思決定」とは何かが判ってくるはずです。歪んだ日本の中で、あなた自身の将来を守るため、春吉省吾の物語は、あなたの「心のワクチン」になるはずです。
現在、四季四部作・第一作の「冬の櫻」の電子ブック化のため、誤字や言い回し、解釈違いを含めてチェックし、全面改訂しています。香港返還の十年前から天安門事件までを活写した「永別了香港」も全面改訂中です。(現在の香港人達の苦悩も、香港返還から始まっている)順次、その他の作品も電子化していきます。 春吉省吾

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                               令和2年5月25日  春吉省吾

「言挙げぞする」最後のまとめ VOL.36


 

 

 

 

 

 

 

お陰様で、「言挙げぞする」という随筆集がまとまりました。
総ページ数は302ページ、表紙デザイン、本文のレイアウトや、書籍JANコードも出来上がり、校正のチェックもほぼ終了。友人の菅野さんからの貴重なアドバイスも取り込みました。
この後、本文の細かな文字の修正をしながら、印刷・製本屋さんと打ち合わせを数回して、本が出来上がります。上梓予定は5月上旬です。(税別定価1,800円)
全体を18の章立てにし、「はじめに」と「あとがき」もこれまでの常識を破り、それぞれ随筆の1章としました。
本冊子は、明治維新以来、日本人が現在に至るまで、疑いもしなかった「常識」を根本から疑い、隠されていた部分を明らかにし、「言挙げ」した事々をまとめました。

平成28年(2016年)の3月に「同根会」という経営研究会を立ち上げた我が師、長谷川智泉先生がご逝去されました。生前に「言挙げぞする」を上梓したかったのですが、残念ながら叶いませんでした。私が「同根会」に入会してから、かれこれ30年が過ぎてしまいました。
「同根会」の会員一号は、ホンダ創業者の本田宗一郎さん、アシックスの鬼塚喜八郎さんなどで、その後も日本マクドナルドの藤田田さんなど錚錚たる創業者が会員でした。
私自身、34年前に会社を興し、イベント企画、デザイン、広告戦略をはじめとして、中小企業の経営者・承継者の方々と企業の経営戦略などにも直截に係わってきましたが、「同根会」で長谷川先生から薫陶を受けたことは、私の大きな財産となりました。
長谷川先生とは必ずしも同じ考え方ではありませんでしたが、寛容に私の考え方を認めて頂いていたと思っています。長谷川先生からは様々な言葉を受け取りました。
例えば、「一能一芸」「勝つにも芸を」「最善策を求めて最善策を求めず」「凝れば正しさもまた……」「人生は四つの直し」「越えてみればもぐらの山よ」「時世のつみ(罪)ごと」など、長谷川先生の言葉を、今を生きる人々に、リアレンジして伝えようと意図しました。
言いようのない不安を抱く、日本の若者達に正しい「歴史観」と「宗教観」を「言挙げ」するのが、日本人の先達としての役割です。

地球上のあらゆる自然は異常に暴れ出し、欲望の資本主義はコントロール不能です。
これから我々はどう生きて死んでいくのか。「生死」は人智の埒外ですが、確たる「生死観」を持ち覚悟を定めるには、意志決定をする正しい「物差し」が必要です。歪んだ「物差し」では、あまりに無自覚・無防備です。
驚くことに、日本人の「物差し」の基層は、仏教、儒教、道教、神道と何れも中途半端、あるいは誤った認識によっています。それも知らずに、さらには旧約聖書のユダヤ教、キリスト教、イスラム教の宗教観の根本を知りません。これでは将来に対する不安を抱くのは当たり前です。
本来こういう硬派の随筆は、学者先生の範疇ですが、「実学」を経験していないと、理窟と実 践は乖離したままですし、広義に物事を把握することが出来にくくなってしまいます。本書は本来の作家としての筆致とは大分違っていますが、それも承知でお読みいただければありがたく存じます。5月上旬の上梓をお楽しみに!!
2018.3.9
春吉省吾

日本「相撲(角力)」考  VOL.34

 


 

 

 

 

 

●12月30日・代々木八幡へ。一足早く「お札」を購入。茅の輪と謹賀新年が一緒に設置されている。


 

 

 

 

 

●平成30年元旦・午後5時20分。正面は新宿のビル群。甲州街道と首都高速。


 

 

 

 

●平成30年元旦・午後5時30分、新国立劇場エントランス。守衛さん以外は誰も居ない。


 

 

 

 

●平成30年元旦・午後5時40分、京王線初台駅東口、改札には誰も居ない。非常に珍しい。

 

明けましておめでとうございます。皆様には良いお年をお迎えのこととお慶び申しあげます。
今年最初は、見過ごされている、あるいは国民の大多数が誤解している、相撲(角力)の「歴史」を踏まえて、私見を述べてみたい。
●最初に「国技」とは、その国固有の文化や伝統に根ざしたスポーツ競技・武術を指すが、厳密な定義は存在しない。例えば、韓国のテコンドー、カナダのアイスホッケーなどは国家機関から法令等で正式に「国技(national sport)」 として認められているが相撲はそうではない。
「日本の相撲(角力)」のはじまりは養老4年(720年)に成立した日本初の正史「日本書紀」にあるとされる。
「第11代垂仁天皇( 紀元前1世紀半ば、98年と7ヶ月在位したと伝承されている)は、伊勢神宮の建立や大規模な灌漑事業を行い、相撲の起源もこの天皇の治世に行われたと伝わる。
「日本書紀」にはこのようにある。
天皇は「当麻蹶速は天下の力持ちだという。これに勝つ者はあるだろうか」といわれた。一人の臣が進み出て
「出雲国に野見宿禰という勇士がいると聞いています。この人を蹶速に取組ませてみたらと思います」
二人は向かい合って立った。互いに足を挙げて蹴り合った。野見宿禰は当麻蹶速のあばら骨をふみくだいた。また彼の腰を踏みくじいて殺した。そこで当麻蹶速の土地を没収して、すべて野見宿禰に与えられた。
何とも残虐で、荒々しい。これが相撲の起源とされるものだが、そこには美しさや、品格などさらさらない、荒ぶる野蛮な命を賭けた格闘技なのだ。これを相撲のルーツというのなら、我々日本人はまずそこをきちっと把握すべきなのだ。ここを知らずして、なにが「国技」だ、なにが「相撲の品格」だといいたい。
延暦11年(792年)、桓武天皇は律令制の徴兵制が機能不全となっていたのを改め、健児の制を導入する。相撲は朝廷の最強の戦士を養成するための「相撲」となった。天長10年(833年)の詔勅には「相撲の節はただに娯遊にあらず、武力を鍛錬するその中にあり」とある。貞観11年(866年)には節会の管理が式部省から兵部省に移管された。七夕の行事に付属した神事の余興の一つに従事していた相撲力士達は、天皇の衛兵となった。礼節や品格などは兵士として要求されることになる。しかし「相撲美」がことさら叫ばれるようになったのは、ずっと新しく、日本が「国家神道」に突き進んだ、昭和初期からのことである。

●日本の相撲のルーツは、広くアジアに求められる。実は2千5百年もの歴史を持つモンゴル相撲(ブフ)は、日本の相撲のルーツといわれている。
草原の大地で行われるモンゴル相撲には、かつての日本と同じく土俵がない。モンゴル相撲では膝や肘や頭や背中などが大地に触れると勝敗が決まる。いわゆる土がつく(大地の神に祝福される)と負けになる。600種類といわれる多彩な投げ技が編み出され、なかなか決着がつかず3時間以上になる事もあるという。
多くのモンゴルの無垢な若者達が、人生の全てを掛け、力士を目指して日本にやって来た。日本の親方制度という名の下に、閉鎖された環境の中で、様々な差別と戦い、理不尽な境遇から這い上がろうと努力する。階級が全ての世界だ。勝ち上がらなければ、モンゴルに戻るしかない。彼らにとっては、勝つか負けるかしかない。勝てば、モンゴルとは比較にならないほど、名声と金銭が約束される。彼らのDNAは、勝負のスイッチが入った瞬間に作動する。世間と隔絶された日本の相撲のルールに何とか従おうとしても、モンゴル相撲の本能がでてしまう。

●日本の相撲に、土俵が出来たのは天正年間から慶長年間にかけてであり、江戸の初期である。それまではただ人垣の中で相撲をとっていた。モンゴルとそう変わりはない。土俵ができて初めて相撲は競技になった。
足を大きく振り上げて四股を踏み、大地の神々を請来して力士の体に栄光の加護を呼び込む。その土俵には特筆すべき「徳俵」の精神がある。土俵の瀬戸際と寛容な空間「徳俵」を生み出した日本的な感性は見事である。裸の大男達が、土俵上で何の武器も持たずに戦う姿に、日本人の多くが虜になった。
江戸時代、大藩の大名はそれぞれに力士を抱え、「上様の覚えめでたき」を得るため、将軍上覧相撲は本場所以上の真剣勝負の場となった。
各力士は主君からその旨を厳しく申し付けられ、負ければ抱えを解かれることさえあった。江戸後期以降、上覧相撲によって幕府は娯楽を制限された庶民の不満をかわしつつ、相撲興行の地位を与え、政治に利用した。
時代は下がって、大相撲の仕切り時間に時間制限ができたのは、ラジオ中継が発端で、それまでは時間制限などなかった。制限なしでは番組編成ができないので幕内10分と決められたのだ。現在は昭和28年(1953年)に始まったテレビ中継に合わせて幕内4分にまで縮められている。このように、大相撲の歴史は天皇家や将軍家の思惑に流され、さらにラジオやテレビというマスコミの思惑にも流されてきた。

●相撲節会(すまひのせちえ)とは、奈良・平安時代にかけて行われた宮中の年中行事で射礼や騎射(後に競馬)と並んで「三度節」とも呼ばれた。この儀式の中で、弓取式の起源だといわれる作法も行われた。勝力士にほうびとして弓を与えることは織田信長のときから始まった。
これらをも含めて、相撲を国技や神事と見なす風潮が一部に存在するが、日本に「国技」はない。
ではなぜ、相撲=「国技」と、皆が誤解するに至ったか、 笑ってしまうような現実がある。
明治42年(1909年)に両国に初めて相撲常設館が完成した際、それが「国技館」と命名されたことが始まりだ。名称は直前まで決まらず、命名委員長であった板垣退助は「両国尚武館」という名前を提案した。この名称が決まりかけていたのだが、相撲好きの作家・江美水陰の起草した披露文に「相撲は日本の国技なり」という案にのった尾車(元大関大戸平)が、「国技館」という名称を提案した。相撲が国技だとされる「間違い」はここに始まった。
決定後も、板垣退助は、東京朝日新聞に
「『国技館』などという名前を付けたことは自分の不行き届きであった。後の祭りであるが、『武育館』でもよかった」と述べ、納得いかなかったようである。
戦後、柔道や剣道、弓道など、日本武徳会の武道がGHQに禁止されるなかで、大相撲は存続し、日本経済の成長と共に、昭和30年代前半の栃若時代、昭和30年代後半からの柏鵬時代、昭和40年代後半から始まった輪湖時代、昭和50年代後半からの千代の富士時代、平成に入ってからの若貴ブームを経て、現在はモンゴル出身の力士達が、相撲界を席巻している。
世界一強いというモンゴル相撲の遺伝子を持つ力士達が、一攫千金を夢見て、勝つために土俵に上がる。日本人力士を圧倒するのは当然のことであった。今回の事件で、つまらないモンゴル力士排斥や、中途半端なナショナリズムの昂揚は厳しく避けなければならない。

●横綱白鵬がよく使うという、張り手や張り差し、かちあげ、さらにヒジ打ちは相撲技の一つであり、ルール違反(反則)というわけではない。
その技をくらって、妙義龍や勢は失神し、土俵に崩れ落ちたこともある。
対戦相手の側頭部への強烈な張り差しは、対戦者の動揺を誘い、脳へ衝撃を与え、一瞬にして戦闘意欲を喪失させてしまう。
白鵬が編み出したかちあげは、体力の衰えを回避するための悪知恵というのはたやすいが、勝ってナンボの熾烈な世界なのだ。確かに横綱白鵬はある時期、一人で大相撲を支えたという自負が、時として奢りに変わるのは猛省しなければならないが、ならばその白鵬に対して、どうやったら勝てるだろうと、科学的な対応をして稽古をしている相撲部屋はあるのだろうか。何回も同じ手で、黒星をつけられるとしたら情けない。今年の7月の名古屋場所で、御嶽海は上手に白鵬のはりさしを張り差しを躱して勝利した。

●力士をはじめ、相撲に関連する立場の方々は何かというと「相撲道」という言葉を多用する。
実は、武芸に「道」を最初にはっきりと取り入れたのは、柔道の嘉納治五郎である。明治22年(1889年)その流儀を「柔道」と命名した。
その柔道は、「精力善用・自他共栄」を基本とし、単に道としての技を習得するだけでなく、天下の大道を学ぶものと機会ある度に教示した。もし嘉納が「柔道こそ国技である」と強く主張していれば柔道が「国技」を担ったかも知れない。国際人嘉納治五郎の「道」の本質を、相撲関係者はどれだけ知っているのだろうか。
その「相撲道」の組織は、現在、公益財団法人「日本相撲協会」という組織になっている。他の武道や、スポーツの団体組織と隔絶しているし、放映料や、税金面の免除もある。
親方制度というものがあり、一度入門したら、親方は父であり、おかみさんは母と言うことになる。疑似親子制度が絶対の基礎にある。またタニマチ(谷町)とは相撲界の隠語で、ひいきにしてくれる客、または後援してくれる人、無償スポンサーのことである。地方巡業と称して、興業をするために、地方の有力者とも係わらなければならないなど、特殊な世界である。
本来、大相撲の抜本的改革はここから始めなければならないが、それは相撲という日本の伝統的興業を否定してしまうことにもなりかねない。
このところ私は、相撲に純然たるスポーツを求めてはいけないのではないかと思っている。
八百万の神々を鎮撫する伝統を背負い、ただ勝つために稽古し、身体を大きくすることに青春の全てをかける力士達はやはり特殊な存在なのだ。そして「ハレ」を全身に纏って裸で戦う。
思うに現在の相撲協会の行事は多すぎる。本場所も地方巡業も多すぎる。時にはどんな名力士でも、疲れが蓄積して無意識に「ふっ」と気が抜け、あるいは気が入らないときもあろう。八百長試合と疑われる取組もあったろう。ならば本場所も巡業も減らすしかない。しかしそれが出来ない現状のシステムでは、コーポレート・ガバナンスは限定的となろう。

●今回の暴力事件のようなことを根絶するのは組織として当たり前だが、私はこういう「世界」もあっていいと思っている。横綱審議委員会は白鵬の取組が、横綱の品格や美しさに欠けるとするその指摘は本末転倒である。そうであるならば、きちっとルールを改定すべきである。
美しく勝つその「美学」は、日本人が求める精神の一つだが、潔癖すぎ、がんじがらめのルールの下では、日本の相撲は滅びる。
二十歳・三十歳前後の若者達は神々しいが「神」ではない。生身のぶつかり合いによって彼らの精神は何時も揺らいでいる。人間の脆さも強さも混在する。日本人はそういうこと全てを含んで力士を愛し、相撲を楽しんできた。その余裕が本来日本人の原点なのだ。それを忘れて画一的な「形式美」を短兵急に求めると、おかしなナショナリズムに陥ってしまう。
武道や相撲に求められる「至誠」・「礼節」を我々日本人は、大きく誤解している。何しろその誤解は今に始まったことではなく、実に「徳川時代」中期から始まっているから厄介なのだ。
そこがきちっと捉えられていないから、今や「至誠」・「礼節」は形式だけのものに陥った。

●日本相撲協会の親方制度やタニマチの因習・慣習を、一般のマネジメントのように単純な組織変革に置き換えてはいけない。問題はもっと深いところにある。
相撲が活性化できるかどうかは、実は日本人がグローバルな時代にどう生きていくかという問題と大きくリンクしている。一相撲協会だけで、すぐに解決できる問題ではないのだ。30年、40年とじっくりと焦らずに取り組まないといけない。拙速な解決は自己撞着に陥る。
このところの我々日本人の発想は、かなり短絡で危うい。素早く変えなければならないことと、そうでない問題がある。本質を見誤ることなく、おおらかな心根を持って取り組みたいものだ。
2018年1月1日 春吉省吾

 

 

 

 

 

 

「言挙げぞする」~私的哲理風随筆を書いています~VOL.33

万葉集の柿本人麻呂『万葉集』巻第13の歌に曰はく

葦原(あしはら)の 瑞穂の国は
神ながら 言挙(ことあげ)せぬ国
然(しか)れども 言挙(ことあげ)ぞわがする
言幸(ことさき)く 真幸(まさき)く坐(ま)せと
恙(つつみ)なく 幸(さき)く坐(いま)さば
荒磯波(ありそなみ) ありても見むと
百重波(ももえなみ) 千重波(ちえなみ)しきに
言挙げすわれは 言挙げすわれは
(中西進先生の全訳注)
あしはらの瑞穂の国は、
神の意のままに言挙げしない国だ
だが、事挙げを私はする
言葉が祝福をもたらし、無事においでなさいと
さわりもなく無事でいらっしゃれば
荒磯の波のように 後にも逢えようと
百重波(ももえなみ)や千重波(ちえなみ)のように
しきりに言挙げするよ 私は
しきりに言挙げするよ 私は
「遣唐使餞別歌」として、はるか唐に赴く人の無事を祈る人麻呂の歌です。

●言葉に呪力があると信じられた上代以前は、言葉に出して言い立てる、むやみな「言挙げ」は慎まれたのです。しかし「言挙げせぬ国」などといつまでも言っていると、それをいいことに、我欲剝き出しの権力者達を、利するだけです。それは阻止しなければなりません。
それに言霊というと、負のイメージが付き纏いますが、柿本人麻呂のように「言挙げ」し、言葉に思いを寄せて祈りを顕在化させることも「ことのは=言の葉(片)」の力です。
次の世代に残したい「こと」をきっちり伝えるのは、物書きとして義務だと思っています。
このところ本気で「言挙げぞする」という、哲理的随筆集、あるいは物語的哲理集という、ちょっと変わった「文章」を書いています。12~3編ぐらいに纏めたいと思っています。

●「同根会」という経営研究会を立ち上げられた、我が師長谷川智泉先生が、昨年の3月ご逝去されました。本当は、生前に「言挙げぞする」を纏めて上梓したかったのですが、雑事に追われて、残念ながら叶いませんでした。
「同根会」の会員一号は、ホンダ創業者の本田宗一郎さん、アシックスの鬼塚喜八郎さんなどです。その後も日本マクドナルドの藤田田さんなど錚錚たる創業者が会員で、26年前、自らも講演者として話された藤田さんのお話は今でも記憶に残っています。
我が社を創立して33年、イベント企画、デザイン、広告戦略など様々な仕事をしましたが、中小企業の経営者・承継者の方々と企業の経営戦略などにも直截係わり、20数年ほど前から、MBA等の経営学に違和感を覚えた私は、原初仏教、空海の密教思想や、鎌倉仏教、論語、孟子、朱子学、陽明学、古神道、旧約聖書、コーラン、日本の古典など、様々なジャンルの資料を手当たり次第に斜め読みし、日本的な経営とは何かと、手探りで学びました。
例えば「親鸞」を知るのに、経典を読み、その解説から今に至る、清澤満之、暁烏敏、大峯顕等の論文を囓り、蓮如の組織作り(創価学会がそっくり取り込んだ、実に凄い組織です)まで範囲を拡げて読んでいくのです。それらの雑多な勉強は、今は殆ど頭に残っていませんが、ふとしたときに「親鸞ならこう考える」「蓮如はこうだろう」なんて思うのです。
平成12年(2000年)から数年、中小企業の経営者・承継者の方々のために、週一回「心身経営学」講座を開きました。半ばボランティアです。
しかし、当時、その理論は角がたち、私自身も完全に咀嚼できていませんでした。その後その「哲理篇」の一部を平成23年(2011年)7月に、経営書「経営の嘘」として上梓しました。入門書としては異質で難しかったようです。
今回の「言挙げぞする」は経営者のためではなく、大げさに言うと悩める日本人のために……いや、迷い続けている私自身のために、様々な視点から執筆しています。

●さて、今もって迷いの真っ直中にいる私ですが、武道を多少囓っていると、その迷いの中で前向きに最善を尽くすことが修業だとわかります。つまり、「迷うこと」は、王陽明の言う「事上に在りて磨練す」という実際の行動や業務を錬磨していく、日常の中で生ずるものです。
と、さも偉そうに言っていますが、生きる事も不器用で、弓道も居合道も、真摯に向き合っているつもりですが、一向に上手くなりません。しかしそう思うことにそもそも恣意的な解釈が紛れ込んでいるわけで、どうやらもっと深いところに事の本質はあるようです。
「明鏡止水」とはいかないまでも、審査などで「無私」に近い心境になった時には合格しています。上手くやってやろうと思ったときは、無残な結果に終わっています。

●9月の末に東京都の「城西地区の居合道大会」(新宿・中野・杉並と我が渋谷の一般、同地区にある大学、早稲田・明治・青山・国学院の学生が参加)が開かれ、七段、六段の部で自由演武をしたのですが、「技間違い」をしてしまいました。集団演武で、一瞬のことなので、注視していないと判らないのですが、真後ろで見ていた渋谷の仲間達からは「佐藤さんどうしたの?新しい技を作ったの」とからかわれました。
居合を始めて20数年、何万回と抜いた技を間違うとは……。上手く抜きたいという邪心から、正しい呼吸を忘れ、自分を見失ってしまいました。気剣体の一致を修業の目的としている者として、何とも情けない限りです。
「人生、恥を掻いてナンボ」という言葉がありますが、恥を掻くのは辛く、消え入りたくなります。
今回は「真剣勝負で命をとられたらそれで終わり」という気迫もありませんでした。同じ失敗を2度としないための稽古を新たに始めます。
大会打ちあげの酒宴では、つとめて明るく振る舞おうとしましたが、酔えませんでした。
前述の同根会会員第一号の本田宗一郎さんは「成功は99パーセントの失敗に支えられた1パーセント」という名言を残されました。
人生、失敗しても、前向きに愚直に生きることが、終わりのない修業なのでしょう。

 

 

 

 

 

●夢想神伝流「勢中刀」。可もなく不可もなく。

 

 

 

 

 

●3段の部で優勝した、渋谷の生島さん(右)。

 

 

 

 

 

●浅草の「長澤屋」さん。弓道を始めて以来25年、ここから白足袋を買っている。銀座や京都の老舗の足袋も私の足に合わない。先代は亡くなってしまったが、ここの5枚こはぜの白足袋は、そんなに高価でなく最高に履き良い。今回まとめ買い。


 

 

 

 

●浅草伝法院通り。ここはいつもお祭ですね。


 

 

 

 

●浅草寺宝蔵門の裏側に「村上市の大わらじ」が奉納されている。
これを見る度に、江戸時代から続く「信夫三山暁まいり」と8月の「福島わらじまつり」の密接な「物語作り」と戦略的なPRが必要だと痛感する。それはひとえに私が福島市の生まれという、郷土愛からなのだが……。

春吉省吾 2017.10.9          Copyrightⓒ 2017 Haruyoshi Shougo

「秋の遠音」 只今執筆中~奧州下手渡藩の不思議~珍しい講演会をしてまいりました


●福島民報新聞・文化欄(縮小してあります)

 

 


●つきだて「花工房」
この施設を建てたことで、地区以外の多くの人が訪れただけでなく、音楽会など定期的な催事を開催し、地域のふれあいの場になっている。

 

 


●左から伊逹市仁志田昇司市長さん、月舘総合支所長、齋藤勇一さん、つきだて花工房支配人、斎藤伸市さん。左は私です。

 

 


 

 

●下手渡自治会長・渡邊好宏さん、伊逹市総務部理事・髙橋昌宏さん


●写真で確認したら、70名ほどの参加でした。暑さの中長時間、御清聴誠にありがとうございました。

 

 

 

9月10日の日曜日、福島県伊達市月舘町下手渡に行き、講演会をしてまいりました。
その朝、東京から新幹線で福島へ。福島駅には主催の下手渡自治会長の、渡邊好宏さんと、髙木さんが出迎えてくれました。福島市から車でおよそ40分の、つきだて「花工房」へ。ここは、食事も、入浴も、宿泊施設もあります。広大な敷地内の原野や、竹林、耕作地などを利用して、様々なイベントが組まれています。例えば、 自分たちで伐りだした竹を使って、樋をつくり、竹の流しそうめん体験や、 畑で収穫した野菜を使って、生地からつくるピザ体験など、家族ぐるみで自然の中で楽しく遊び学習できるようです。
「花工房」で食事のあと、近くの「下手渡地区交流館」へ。ここは、旧下手渡藩陣屋からも近い地区の集会所に向かいました。畳部屋でした。集まった方々は、座椅子の方、坐っている方、車椅子の方などいろいろで、後から写真でチェックすると70名ほどの参加でした。おそらく、地区の一家に1人が参加されたような案配です。色々な講演会をしていますが、畳敷きの部屋でこのような雰囲気で、お話ししたのは初めてでした。
当日は気温も30度を超し、会場の熱気もあり、さらに、通常では1時間ほどの講演なのですが、質問も含めて2時間近くお話しさせていただきました。汗びっしょりになりました。
お忙しい日程を割き、伊逹市の仁志田昇司市長さんにも最後までお聞きいただき、講演が終わっても雑談に熱が入り、仁志田市長さんの伊逹市の歴史・文化に向き合う真摯な姿勢に感動いたしました。
また、東京からわざわざ会場にお越しいただいた、拙著の読者のお一人、武藤洋経さんにも感謝申し上げます。
通常執筆途中で、その作品中の人物や、背景などについて講演するというのは作家としては無謀なことです。しかしこの物語は、幕末・明治維新期において、「下手渡藩」という一万石の弱小藩、現在の伊逹市月舘や霊山町、伊達郡川俣町、福島市飯野町などを含む下手渡と、三池(現在の大牟田市)の1500キロほど東西に離れた、その双方を管理した壮大な物語です。
気候風土、暮らし向きのあまりの隔たりに翻弄される藩士達を描くのも大変で、ともすれば挫けがちになる自分自身を、上梓前に「講演」をすることで、鼓舞するためもありました。
こうして、下手渡の方々にお話しした以上は何としても、面白く、日本中の人々にお読みいただけるような作品に仕上げなければなりません。歴史上、著名な人物も、多く登場いたします。
この先、じっくり練りあげて、大河の如き小説を作ろうと覚悟を新たにした次第です。
2017年9月22日    春吉省吾

9月「風浪の果てに」から「秋の遠音」へ 今年も残り3分の1、全力投球! VOL.31

 

 

 

 

 

●2017.8.14福島市の弁天山からの展望。
「風浪の果てに」の本文44ページから48ページ。主人公、沼崎吉五郎と京が、しみじみと城下を見下ろした同じ場所に立った。
中央には阿武隈川が流れ、その後ろは、福島城跡、現在は福島県庁。左の橋は天神橋、江戸期では奥州街道、福島宿の入り口であった。その手前は福島河岸。米沢藩を始め、江戸へ回漕するための米蔵が並んでいた。
この地点は、安寿と厨子王と母が、暮らしていた「椿館」の跡と言われている。

 

 

 

 

 

●弁天山・椿館跡。安寿と厨子王と母が、ここから旅立った。

 

 

 

 

 

●弁天山・椿館跡。この日、一時間ほど散策したが、誰にも出会うことがなかった。福島の中心から車で10分。最高のロケーションなのだが…。蝉時雨が何故か寂しい。行政の宣伝不足か?「風浪の果てに」、「春のみなも」も、市長はじめ、まともに読んでいる市の職員は少ないだろうからな……。

 

 

 

 

 

●持ち寄りの大御馳走。暑気払いを兼ねた「同級会」。風流な三味と、小唄も。


 

 

 

 

●福島近郊の8月14日、稲の生育は良好と思われたが、その後の長雨と日照不足でどうなったか心配だ。

 

 

 

 

 

●9月に入って、朝のウォーキング。
中野通りと方南通り、新宿に続く南台交差点近くのサルスベリの並木が満開。

◆私のスケジュール帳は、9月始まりなので、毎年買い換えるたびに8月までの事を振り返ります。
ここまで、相変わらず多忙でした。忙しさの筆頭は、3月に長編小説「風浪の果てに」を上梓し、福島脱藩浪人沼崎吉五郎という人物を「生き返らせた」ことです。
事件に巻き込まれ、伝馬町に繋がれた吉五郎。西奥揚屋の牢名主となり、吉田松陰の遺書「留魂録」を預かり、三宅島に流されて15年。明治7年に赦免になり、東京に戻ってきます。その2年後に、松陰の妹二人を嫁にした楫取素彦に連絡を取るが叶わず、ようやく「留魂録」を野村靖に手渡します。以来、吉五郎の足取りは杳としてわからないままでしたが、「風浪の果てに」では、その後の吉五郎の悠々たる人生を描いています。ヒロイン達も活き活きと描ききったつもりです。
勝てば官軍、生き残った長州閥の跋扈によって、現在も根強い長州人脈が存在し、彼等の実力は過大に語られています。楫取にしろ野村にしろ、久坂玄瑞にしろ、2015年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で描かれるような人物ではありません。司馬遼太郎さんの、幕末、明治維新の人物描写もそのまま鵜呑みにせず、吉村昭さんの幕末の小説を読むことをお薦めします。

「風浪の果てに」の脱稿から上梓までの間に、編集作業、表紙や、本の装丁等々、印刷業者との打ち合わせ、ネットへのPR、チラシ作り、パブリシティ活動など、作家活動の他にもあらゆる作業を独りでやっているため、年末も正月もありません。(いつものことです)
加えて、上梓間近の2月に田舎の母が、大腿骨頚部骨折で入院した事も重なって、東京・福島間を往き来し、疲労はピークでした。
ようやく「風浪の果てに」が仕上がって、私のところへ運ばれてきましたが、運搬員が、車をぶつけてミラーを壊したとかで、ブツブツ言うだけで、まともに働かず、本の搬入を殆ど一人でこなしました。いゃあ、大変でした。「本は重い」のです。自作の本は尚更です。
疲れが更に重なって「帯状疱疹」の痛さも経験しました。
まあ何とか世に出した「風浪の果てに」は、3月25日の週の、セブンネットサイトの「新着・本・コミック」1週間売上ランキング1位になりました。作家としては、もっと多くの方に読んでいただきたいのですが、何分超零細出版社で、取次も、東販の下請け会社なので、販売力は微弱です。何れ何とかしたいものです。読者の方々の中で流通・取次会社の「つて」をお持ちでしたら、ぜひご紹介・仲介をお願いいたします。

弓道の早朝稽古は、週2回、何とか時間をやり繰りして続けています。6段を取得してから、武道、特に弓道の本質は体軸と手の内にありという信念から、中りを度外視して、基本からやり直して2年、最近ようやく、微妙な「技」の感触が10射に1、2射、体感できるようになりました。
46歳からはじめた居合も今年で20年。やはり体軸と手の内、技の緩急を身体に覚え込ませるために、ここ半年、隙間時間を縫い、毎日、抜きの稽古をしてきました。短い時間でも、精神を研ぎ澄まさないと、本身(真剣)ですから、怪我をしてしまいます。
お陰様で、6月末日に大阪で行われた、全日本剣道連盟の居合道の6段審査に合格することができました。
これで、弓道も居合道も6段を頂き、時代小説を書く上で、弓や刀の扱いを描写する際の、リアリティは他の作家よりもあると、自負しています。
そんなことから、役者達が、弓と剣を扱うシーンを映画やテレビの中で見ると、どれだけ熟達しているかという観点からつい眺めてしまいます。
昭和の有名な時代劇スターでも、まともに弓を扱える役者は残念ながら一人もいません。剣の扱いが上手な俳優は、昭和の初めから現在まで、勝新太郎さんただ一人です。視聴者を喜ばせる事を重視する殺陣師さん達も、見てくれだけでなく、真剣を扱うとはどういうことなのかと、その基本を学ぶべきです。

現在、長編時代小説四季四部作の最後の作品「秋の遠音」を執筆中ですが、6月に下手渡自治会の渡邊さんという方から、
「下手渡藩の事をお書きになっているようですが、下手渡や三池の事をお話しいただきたい」
という依頼がありました。
執筆途中で、その作品の人物達や、背景などについて講演するというのは、かつて聞いたことがありません。ずいぶんと躊躇しましたが、引き受けることにしました。
伊逹市月舘や霊山町、伊達郡川俣町、福島市飯野町などを含む「下手渡藩」の存在は、地元の方もあまり知りません。また、立花家が下手渡に移封になって45年後、下手渡の一部と、旧領の三池(現在の大牟田市)の一部とが交換になり、1500キロほど東西に離れた双方の管理が必要となりました。
それぞれの郷土史家達の資料は微妙に食い違い、その資料も少ないのです。このままではこの歴史的な事柄が埋没してしまいます。
講演会で地元の人達と懇談し、この地方の歴史を再認識して貰い、地元の活性化に少しでもお役に立つことが出来ればいいなと思っています。
というわけで、この9月10日に、伊逹市の「下手渡地区交流館」で講演して参ります。
すぐ隣には、「つきだて花工房」という、自然の中に建てられた宿泊施設があります。良いところです。機会があれば訪ねてみてください。今回は残念ですが、そこには宿泊しないで戻ります。
ともあれ、戦国時代の九州の猛将、高橋紹運の子立花直次(兄は立花宗茂)を藩祖とする三池立花家が、遠く東の奧州下手渡に移封となり、最後は三池に戻る、廃藩までの歴史は、幕末・明治初期の激動を舞台にした、壮大なスケールの大河小説に相応しいものです。
ここ数日、PowerPointで、講演会用のスライドを作っていました。
その講演会の報告は9月の後半にお届けできると思います。お楽しみに。
2017年9月6日 春吉省吾

 

 

 

 

 

 

「風浪の果てに」が7ネットショッピング 新着「本・コミック」の部門で、1週間売上ランキングで第1位になりました。

今日(3月26日)何気なく、配本の欠品状況をチェックしていたら、セブンネットショッピングのサイトに「風浪の果てに」が「新着 本・コミック」の1週間売上ランキングで第1位にランクされていることを知りました。1番はいいですね。2位、3位と違って響きが違いますからね。
配本状況からして、直ぐに欠品になるはず(事実、在庫無しになりました)なので、束の間のランキング1位でしょうが、大手出版社に互して、零細企業で異端の出版社の「風浪の果てに」が、トップを飾ったのは、嬉しい限りです。
ここ1ヶ月以内に発売された文芸新刊書の中で、最もボリュームがある書き下ろし時代小説である「風浪の果てに」が話題を呼んだことは、いい感じです。1人でも多くの方に読んで頂ければ作者の本懐です。

「風浪の果てに」の主役の沼崎吉五郎は、吉田松陰の手紙に「福島脱藩浪人」と紹介されているというのは、何度もご案内致しました。現在の私の故郷、福島市です。ということで地元県民紙にご挨拶に伺いました。「福島民報さん」は3月12日、「福島民友さん」は3月の22日に、それぞれご紹介頂きました。ありがとうございました。
民友新聞には
「歴史の激動期を背景に世の理不尽にあらがい続ける男の物語は、ユーゴーの『レ・ミゼラブル』を思わせるが、吉五郎が投獄された江戸・伝馬町の牢獄へと舞台が移ってからは、庶民目線を堅く守る作家の幕末史観が色濃く語られ、ひと味違う」
とあり、作家の心情を「忖度」して頂きました。(今や森友学園で「忖度」という言葉がいい加減に使われた結果、すっかり手垢が付いてしまったのは、残念です)
民報新聞は
「独自の視点で幕末・維新を切り取っている。『登場する数人の女性に思いをはせながら読み進めて貰うのも面白い』と、多くの人の目に触れることを願っている」
との記載は、まさしく春吉の大衆小説家としての制作意図のひとつです。
ありがとうございました。

さて3月21日(火)気象庁は、東京都千代田区の靖国神社にある桜・ソメイヨシノの標本木が開花したことを発表しました。平年より5日早く、昨年(2016年)と同じ3月21日の開花。これは沖縄を除くと全国で最も早い桜の開花宣言とといいます。でも、私の皮膚感覚としては、まだまだ底冷えも厳しいし、4月になってからが、花見の本番だと思います。
そんなわけで、ここ数年、「桜の定点観測」をしている場所がありまが、皆様にその写真をアップ出来るのは、月が変わって第2週からでしようね、きっと。お楽しみに。
2017/03/26     春吉省吾

「風浪の果てに」一般発売日に寄せて~東日本大震災から6年が過ぎました~VOL.24

2011年3月11日に起こった東日本大震災から丸6年が経ちました。あっという間の6年間でした。
昨年の3月10日現在までに判っている人的被害は、福島・宮城・岩手をはじめとして死者は15,894人、警察に届出があった行方不明者は2,561人となっています。
尊い命を突然に絶たれてしまった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。そして未だに故郷に戻れない方々、いまもって行方不明の方々の消息を尋ねておられる、ご親族の心中を思うと胸が痛みます。
大震災から東電の原発事故に至る、日常から「非日常」の天災(地震)と人災(原発事故)は、あらゆる日本人の生活と意識構造を変えてしまいました。
肉親や親戚、友人を一瞬にして失ってしまった方々だけでなく、全ての日本人が、大きな影響を受けているのですが、「俺は関係ねえ、他人事だ。税金を上乗せされるのも納得がいかない」とうそぶく方は、想像力の欠如といわざるを得ません。
大震災と原発事故は感情的なしこりや、補助金等の経済的な問題も含めて、様々な捻れ現象を生み出しました。それらのことは、政府・行政、東京電力はもとより、本来明らかにすべき存在であるマスコミも、現在・将来に亘り、決して国民に具体的な情報公開されることはなく、肝心な部分は隠蔽されたままで、歴史の闇のなかに葬られるでしょう。

無数の情報や憶測が乱れ飛ぶ「情報化時代」ですが、想像力の欠如は今後益々増幅していくと思います。残念ながら情報の欠片に振り回され、多くの人達が、刹那的、享楽的で、「自分自身の物差しで物事を考える」ことをしなくなったからです。(「出来なくなってしまった」と言うべきか) 物事を複眼的に、重層的な関係で捉えられなくなっています。
その物差しを形成する精神的な土台は、宗教的な思想書や、伝統的な文化などによって、伝承され形成されていくものですが、憲法20条によって宗教は尊重されるべきものであるが、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と規定されており、公立学校の義務教育・高校教育では、空海、親鸞や道元、日蓮などの「日本人の強い意志」の思想を学ぶことは無いのです。これらに確かに含まれる自分の思考の根っこを知らずに、どうして物事を「考える」事が出来るのか。不思議に思います。
我々は日常的な行為をただ流されるままに、無意識にやり過ごしてしまうと、地球規模の権謀術数の坩堝に呑み込まれてしまいます。考える物差しが無いのですから当然です。

西行法師が伊勢神宮に参詣した際に詠んだとされる歌にこういうものがあります。
「なにごとのおはしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる」
(ここにどのような神がいらっしゃるのかは 存じ上げないが、身にしみるようなありがたさが こみ上げてきて、思わず涙がこぼれてしまった。)
西行法師の歌を、共感できる嬉しさは、日本人として大切な事ですが、今や我々の身の回りは直截に世界とつながっています。西行さんのように無防備でいるわけにはいきません。かといって、今さら宗教的な思想書など一行も読みたくないという方にお勧めするのが、良質の長編小説です。それもやや硬質の歴史小説・時代小説をお読みすることをお薦めします。
私が凄いと思う長編歴史・時代小説の作家の筆頭は吉村昭さんです。どうしてこんなに詳細な資料を集めて、しかも淡々と書くことが出来るのか。一度お目にかかりたかった先生です。
今回の「風浪の果てに」では、複数の資料の記述が全く違っていて、歴史的に「?」という特定できない部分が多くありました。吉村先生の記述を基礎として、自分なりの判断をさせて頂きました。
幕末・維新の時代、「尊皇攘夷」の嵐の中で、福島脱藩浪人沼崎吉五郎という不思議な人物の苛烈な半生を描きましたが、その主人公の吉五郎は、小伝馬町の牢獄で、吉田松陰と二度同囚になるという偶然によって、「松陰」の遺書「留魂録」を大事に守って後世に伝えました。
しかしその吉五郎は、今までは、松陰の添役にすぎませんでしたが、「 風浪の果てに」では 吉五郎が主役です。
私はこの作品において、自らの死を賭し「狂」をもって尊皇攘夷の志を鼓舞した松陰と、その対極の人生を「生ききった」吉五郎を際立たせたかったのです。
また「勝てば官軍」と、時流に乗って尊皇攘夷活動をした、無知蒙昧な長州人が非道を働き誅されても、維新後に祀られるという、おかしな現象が数多く存在します。勝者の歴史は必ずしも正しいものではないということを知るべきです。しかし「自己の物差し」を持っていなければ、その判断すら出来ないのです。
本作品では、吉五郎が係わった女達に、突然の不幸が度重なって起こり、日常が非日常の悲劇に暗転するその運命は、 東日本大震災に罹災された方々の不幸と同質のものです。そして吉五郎が置かれた立場は、被災されて未だに出口のない方々の心を表象しているかの様です。
我々は、吉五郎のように、繊細な心根を決して喪失しないままに「理不尽に対する耐性」を学ばなければなりません。
東日本大震災、原発事故から6年経った今、人生の幸福と不幸は、常に背中合わせにあるということを忘れないことが大切でしょう。突然襲いくる不測の事故は、残念ながら人智を超えて、不可避です。それ故に、我々は与えられた命を、生ききらなければならないという覚悟が必要です。この当たり前のことを、しっかりと確認するために、「風浪の果てに」が少しでも皆様の「物差し作り」にお役に立てれば嬉しく思います。

小説の冒頭P45に、福島の弁天山で、吉五郎と芳の会話があります。
「ふん、何もわざわざ不幸な話を聞いて、更に不幸になることはねえじゃねえか」
吉五郎はぶっきらぼうに言った。
「不幸な話は、私のような女には却って慰めになるんだよ」
「風浪の果てに」の冒頭から、最後の一行まで繫がっております。
じっくりと、お読みください。

「風浪の果てに」は 人間不可避の「生と死」の深部と、激動の幕末維新を組み合わせた「時代小説」ですが、意識が先走り、十分な推敲まで手が廻らなかったこともございます。正誤表と、敢えて拘った言葉の使い方も下記に表記いたしました。
https://norkpress.com/(ノーク出版のサイト)の「Links」をクリック頂ければ幸いです。
春吉省吾   2017/03/13


 

 

 

 

 

 

 

 

 

●「ならまち」の落ち着いたただ住まい。「元興寺」の石塔。早い時間で、拝観客はだれも居ませんでした。
じっくりと係員の方から興味ある話を聞くことが出来ました。ここから新薬師寺まで歩きました。「前に来たときより暗く感ずるのですが」と尋ねると「ええ、前よりも照明を落としています」とのこと 。感性は未だ鈍っていませんでした。奈良国立博物館で特別展「お水取り」を見て、近鉄特急で京都へ。2017/02/21

●京都に移動し、ホテルにチェックインして、毎月21日に開かれる「弘法市」を見に行きました。夕方で撤収が始まっていましたが、賑わいの名残は残っていました。
2017/02/21

●真如堂の庭園は何度見ても美しい。
写真2枚。
そこから歩いて、金戒光明寺へ(写真左下)。京都守護職を務めた会津藩主・松平容保が本陣を構えた寺で、新選組誕生の地でもります。聖護院は修験道の寺・山伏の寺だが、皇室とも関係が深い。(写真右下)2017/02/22

●知恩院から八坂に抜けて、四条大橋の袂のレストランで食事をして、最後は霊山歴史館へ。
いゃあ、よく歩き、楽しんで参りました。2017/02/22
次回は、皇室・公家の史蹟を重点的に調べに行こうと思っています。「初音の裏殿」の大きなテーマになっています。

「風浪の果てに」あとがきから

【 あとがき 】
平成28年の12月26日の早朝、長編「風浪の果てに」を脱稿いたしました。不覚にも鼻水と涙が止まらずに「自分で書いたものに自分で泣いてどうする」と思ったものです。
私のこれまでの作品は日本の作家の誰とも違って、全て超長編書き下ろしですから、脱稿して形にならないと、それまでの努力は一切酬われずに埋もれてしまいます。それ故に、脱稿した瞬間には「今ここで死んでもいい」というような大きな感動があります。
「風浪の果てに」では、松陰と吉五郎を際立たせることによって「生と死」の意味を記述いたしましたが、吉五郎を取り巻く境遇はそれすらも呑み込んでしまう苛烈な幕末・維新の物語です。
今回の構想は十年前から温めていたのですが、関連する多くの資料を読み込んでみると、現在に至るまで、勝手な松陰像を作り上げている方々が何と多いことかと改めて思います。
例えば「やむにやまれぬ大和心」という文句を卑小に抜き出し、権力や自己防衛のために使ったり、勝てば官軍という勝者・長州閥の奢りの残滓が、未だに正しい松陰像を探ることを歪めています。
松陰は自らの死によってその存在を自己完結させましたが、吉五郎はそうではありませんでした。若いときから斜に構えて生きて、係わった女達を皆不幸にしてしまうという恐怖にも似た感情を抱え、過酷で理不尽な人生を耐え続けました。その生き方の何と人間臭く、魅力的なことか。
「人間皆凡夫なり」。多くの人物が登場する骨太の哀しく切ない物語をお楽しみください。
なお本小説の荒校正を含めて貴重なアドバイスを福島民友新聞社元常務・菅野建二様に頂きました。 ここに心より感謝申し上げます。
(春吉省吾 平成29年1月15日・強烈な寒波の東京で)

「吾妻鏡」と伊達郡国見町 「阿津賀志山の合戦」~中世最大の戦い~  VOL.17

太田町長と説明いただいた大栗さんと右手前阿津賀志山土塁の断面図

国見町太田町長様と          酷暑の中案内いただいた大栗さん。右奥は阿津賀志山   土塁の断面図・左が鎌倉軍、右が奥州軍

阿津賀志山と手前土塁土塁から藤田国見を望む中尊寺蓮2

阿津賀志山土塁跡と中央の阿津賀志山  土塁の上から国見・藤田を望む。右に藤田城跡・源宗山、源頼朝が本陣を置いたとされる

中尊寺蓮奧州道中国見峠長坂跡下須房太郎秀方

藤原泰衡の首桶に残っていた蓮の種が平成10年に開花。国見町では平泉から平成21年に貰い受け育てている。

旧奥州道中 国見峠長坂跡
石名坂で敗死した佐藤基治等一族の首級は、この先の経ヶ岡の地に晒された。
芭蕉も通った「奧州中道」、私もいろいろな思いを抱いて歩いた道でした。旧奥州道中 国見峠長坂跡

阿津賀志山大木戸の本城で鎌倉軍と戦う下須房太郎秀方、僅か13才での討ち死にであった。
金剛別当秀綱の息子とあるが、奥州藤原氏の家系図には、藤原泰衡の子として載っている。養子になったのかも知れない。
阿津賀志合戦、美少年第一等、悲劇のヒーローである。

 

(1)伊達郡「国見町」中世最大の古戦場跡へ
「吾妻鏡」(あづまかがみ)という鎌倉時代に書かれた歴史書があります。鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの事績が記載されています。
その「吾妻鏡」の中に、奥州平泉藤原氏の4代藤原泰衡を総大将とする「藤原軍」と源頼朝が率いる「鎌倉軍」が戦った奧州合戦の最大の激戦地の事が書かれています。その場所は福島県伊達郡国見町にあります。今から827年前、頼朝軍を迎え撃つために築かれた防御防塁「阿津賀志山防塁」の一部が今も残っています。
ここ「阿津賀志山」の合戦は、東北大学の入間田宣夫先生によると、
「阿津賀志山合戦に参加した実際の兵員の数は、両方併せて、3万騎ぐらいと見てよいのではないかと思います。しかし、この3万騎という数は、あの『関ヶ原合戦』にも匹敵する様な非常に大規模な、たくさんの人数が参加した壮大な合戦であったことを示しております。日本の中世では最大の合戦であったと考えられるのであります」

私は今まで、全く違う目的で「吾妻鏡」を読んでおりまして、「阿津賀志山防塁」の存在を知ってはいても、あまり興味も抱かず、詳しく知ろうとしませんでしたので、偉そうなことは言えませんが、一度は中世最大の古戦場に立ってみたいという強い思いが働きました。
今回、国見町教育委員会生涯学習課の大栗行貴さんに現地を案内して頂きました。
7月の頭に「阿津賀志山防塁」の資料が欲しいと、大栗さんに連絡したところ、資料をお送りいただいたのですが、郵便局の手違いで戻ってしまったようです。それならと実際にお伺いすることにし、8月の13日土曜日の午後、お目にかかり説明を受けた後、現地を丁寧にご案内いただきました。大栗さんは「阿津賀志山防塁」など、考古学の若手研究家です。
国見町の太田久雄町長さんにもお目にかかりました。拙著「春のみなも」贈呈の御礼にと、特産の桃をお土産に頂きました。大ぶりな「川中島」は瑞々しく美味しかったです。ありがとうございました。

さて、私の目の前に拡がる阿津賀志山の夏風景は、頼朝自ら兵を率い、藤原軍と合戦に及んだ場所とは思えない穏やかな景観でした。
今やその防塁は、東北本線、東北新幹線、国道4号、東北自動車道などに分断され、さらに耕作や用水路などによって地形が相当に改変され、水田畦畔・畑地・果樹園などに変わり、断続的に土塁状の地形の高まりや段差を残しているだけなのですが、それは平泉とは大きく違います。
芭蕉は、奥州藤原氏の滅亡、英雄源義経の終焉の地、平泉に立ち「夏草や兵どもが夢の跡」という感傷の句を詠みましたが、その趣とここ阿津賀志山の風景は全く異相します。
命を賭け戦い、燃焼しきった後の「安穏」と「静寂」は、厳しい夏の陽射しの中ですっくと伸びる稲の茎と葉に移し込まれているのでしょうか。八百数十年の長い時間の経過は夢の如くです。
土曜日の午後、この日もうち続く猛暑は収まらず、国見町は暑かったです。
貴重なお時間を頂いた大栗さんと太田町長さんには改めて御礼を申し上げます。

(2)「吾妻鏡」と国見「阿津賀志山」
「吾妻鏡」のその部分の記載を現代語訳にして一部記載してみましょう。(「吾妻鏡」4.奧州合戦 吉川弘文館)
文治5年(1189年 )8月7日 甲午
「二品(源頼朝)陸奥の国伊達郡阿津賀志山にほど近い国見の駅に着御す。ところが夜半になって雷鳴が轟き、御旅館に落雷があり、皆恐怖を感じたという。
藤原泰衡は、これまでに頼朝が出陣したことを聞き、阿津賀志山に城壁を築き、要害としていた。国見宿と同山との間に、にわかに口が五丈(15メートル)もある堀を構え、逢隈河を堰き入れて柵となし、泰衡の異母兄の西木戸太郎国衡を大将軍とし、金剛別当秀綱とその子下須房太郎秀方をはじめとする二万騎の軍兵を付けて派遣した。(こうして)山内の三十里は軍勢で充満した」
吾妻鏡に記載のある阿津賀志山の城壁は全長3キロにわたつて帯状の堀と土塁が築かれ、一重と二重、三重の土塁跡が発掘されています。堀の深さは3~4メートル、堀の全体幅も「口五丈」というように15メートルの規模です。専門家によると、これら土塁の構築と大将軍藤原国衡が護る大木戸の本城の工事など、総計40万人の人夫が動員されたということです。
また奥州信夫郡(現在の福島県福島市飯坂地区)に勢力を張り、大鳥城(現在の舘の山公園)を居城とした佐藤基治は、頼朝の鎌倉軍と「石名坂」の上に陣を築き対峙しました。基治は源義経の従者佐藤継信・忠信の父です。これら城壁陣屋の建設などに注がれた人夫の数は述べ5~6万はくだりません。実に福島市以北の全てが奥州軍と鎌倉軍との直接対決ラインでありました。ただ残念なことに 「石名坂の戦い」の場所は、現在の福島市平石、もしくは飯坂と未だに諸説が別れていて特定できていません。
尚この戦いで、頼朝軍の先兵として佐藤基治と戦った常陸入道念西、後の伊逹朝宗は戦いに勝利し、頼朝から伊達郡を貰いその子孫の伊逹政宗に引き継がれ、秀吉の奥州仕置きによって、仙台に移封になるまで、この一体を支配したというわけです。
伊達政宗の祖父・祖母は現在の福島県庁の「福島城」を隠居所として使っておりました。祖父母に可愛がられた孫の政宗の信達地方に対する思い入れは尋常ではなく、関ヶ原の戦いの直後、慶長5 年(1600年)10月6日、伊達政宗は本庄繁長が立て籠もる福島城を奪おうと、青葉山(信夫山の古名)の麓に陣立てするも、須田長義にも攻められ、不覚をとり白石に撤退しました。これを「松川の合戦」といいます。
現在の仙台「青葉城」の名称は、政宗が遂に成しえなかった郷愁と屈辱の心象風景なのです。

(3)頼朝のねらいは平泉にあらず、朝廷に対する圧力と全国制覇
頼朝のねらいは、奥州平泉を平定するというのは表向きで、鎌倉幕府の全国完全制覇のための総仕上げとして「奧州合戦」が位置づけられました。鎌倉、頼朝軍からみれば「奥州征伐」ということになります。
「吾妻鏡」は勝者、鎌倉幕府の記述であり、都合のいいことが多く記載されていますが、総合的に判断しても頼朝の凄さが判ります。後世の徳川家康が、頼朝を尊敬し「吾妻鏡」を熟読したことも頷けます。
頼朝はそれぞれに癖のある、しかし能力のあるブレーンを上手に使いました。
元京都の下級官僚の大江広元、三善康信をはじめとして、大庭景義・八田知家・千葉常胤・和田義盛・比企能員・梶原景時らのメンバーです。
残念ながら、頼朝亡き後の土台は北条一族によって抑えられ血筋は途絶えますが、その辺りも家康は見事に学習しています。やはり武家政権の全ての見本は「源頼朝」なのです。
また、後白河上皇は、頼朝の前に立ちはだかる最大の策略家で「大天狗」と称された人物です。
しかし遠く鎌倉にあった頼朝は、上皇の宣旨を俟たずに、日本国66カ国の内、平泉の奥羽、出羽を除く64カ国の武将達に対して、「奥州討伐」参戦の日本史上最大規模の命令を発しました。
薩摩はじめ南九州の豪族まで根こそぎ動員され、はるばると国見の「二重堀」まで手弁当でやって来たのです。その見返りは、頼朝からの領土安堵・官職などの褒美です。不参加者は領地を取り上げられ、財産没収というわけです。
もはや頼朝にとって、勝つことは当たり前、その目的は全国の武士達を総動員して、奥州平泉の地で勝ちどきを上げることです。奥州平泉の藤原氏の存在は頼朝にとって「生け贄」でありました。政治の厳しさ、頼朝の政治家としての冷徹な意志が判ります。

(4)秋の尾花 色を混え、晩頭の月、勢を添ゆ
頼朝軍は、軍勢を三つに分けて、頼朝自身は大手軍として中路(奥州道中)より、太平洋側からは千葉常胤を総大将とし、また北陸道からは比企能員からと、それぞれの地を靡かせて平泉に向かいました。
阿津賀志山の戦いを終えた頼朝は、一週間ほど陸奥国の行政の中心「多賀城」に駐屯し、念入りな作戦を確認し平泉を目指しました。
9月4日、奥州軍を一掃した、三軍全てが、紫波郡陣岡(岩手県紫波郡紫波町)に集結しました。諸人の郎従らを加えた全軍は実に28万4千騎と想像を絶する大軍となったのです。
吾妻鏡にいう。
「それぞれに白旗を打ち立て、おのおの弓に倚せおいた。秋の尾花が色を混じえ、晩の月が勢いを添えていたという」
同6日、藤原軍の総大将泰衡の首が陣屋に持ち込まれました。

頼朝は、治承4年(1180年)8月17日に挙兵した後、11月の17日に常陸の佐竹との戦いに勝って以来、木曽義仲を討ったときも、平家を追討したときも、自らは戦場に立つ事はありませんでした。
この挙兵の戦いを除くと、「阿津賀志山の合戦」は西は九州から東は奥羽まで統治するための頼朝の総仕上げの戦いで、先陣に立った最初で最後の戦いでした。
承久元年(1190年)頼朝は初めて京都に赴き、権力者後白河上皇と面会し、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられました。これにより朝廷から独立した政権が開かれ、後に鎌倉幕府とよばれたわけです。
何と壮大な、頼朝の政治的野望が展開されたことでしょう。
そして阿津賀志の合戦で戦い散った、多くの武者、若き武者達の戦いぶりを交えて、殆ど知られていない壮大な合戦の背景にある人物の悲哀と、息遣いを書きとめられたら面白いなとおもっています。物書き春吉の独り言です。

平成28年9月6日    春吉省吾

 

「人を殺す」ということ ~「風浪の果てに」の執筆の裏話~

「風浪の果てに」という長編時代小説を書き始めて、大分たちます。当初に全体のプロットを作って書くのですが、細部に亘っては、書きながら変わってくるというのが、このところの執筆スタイルです。ガチッと枠を固めてしまうと、文章にゆとりがなくなってしまう気がするからです。
その時々の「ゆらぎ」のようなものをゆっくりと掬い上げ文字にしたいと思っています。
長編ともなると多くの人物が登場し、死んでいくことになります。当たり前のことですが、それぞれに異った生き方と、その果てにある「死」を書くことがすなわち「生」を表現することであり、それが「物語」です。
「風浪の果てに」では、既に2人のヒロインを「殺して」しまっています。半年ぐらい前から、もう1人のヒロインの「死」がずっと頭の隅っこにありました。
全4章の内、そのヒロインの死を含む第2章の最後の部分がどうにも纏まらず、ずっと迷っていたのですが、やっと6月の末に書き終えました。
その間、その部分はそのままに措き、第3章を書き始めたのですが、こんなに呻吟するとは思っていませんでした。
目を背けたくなるような情景であっても、読者が次の活字を追いかけずにはいられない文章を書きたかったからです。感情過多に陥らずしかし、情感は豊かに表現したいという追求です。尤も、上手くいったかどうかは読者の方々の読後感に委ねるしかありませんが……。

そんな時、「ALWAYS 三丁目の夕日」や、最近では「精霊の守り人」の劇中の作曲(これを劇伴というらしい)をされている佐藤直紀さんが、テレビ番組で、
「つらいですよ(笑)。曲を書いてる最中は本当につらいです。スラスラ書ければいいですけど、曲なんてスラスラ書けるわけないじゃないですか。でも、締め切りはある。今日中に1曲終わらせておかないと、あとが大変だ、という日々の繰り返しなので、毎日本当につらいです。音楽が楽しいという時代は、大学で終わりました」
とドキュメンタリー番組でお話ししているのを聞いて、深く納得した私でした。

書き始めた第3章は、小伝馬町が舞台です。現世地獄として名高い「江戸牢獄」。ここでは、主人公の沼崎吉五郎と関わった、2人の人物とのやりとりを通して筋立てをしていきます。
1人は、堀達之助、もう1人は吉田松陰です。
前者は、ペリー艦隊の来航に主席通詞として活躍した人物ですが、思いもかけない罪で入牢。
同じ時期に獄中にいた吉五郎は、日本に押し寄せるアメリカやロシアの最新情報を奇しくも獄舎の中で聞けたわけです。
もう1人の吉田松陰は、日本中で知らない人はいない人物です。西牢の牢名主となって、松陰が斬首になるその朝まで一緒にいた吉五郎は、遺書となった「留魂録」執筆の便宜を図り、その後、三宅島に流されても大切に持ち続け、それを後世に残しました。
その吉五郎は松陰から何を感じ、学んだのでしょうか。
松陰自身、死に臨んで、倒幕出来るなどとは思ってもいなかったはずです。松陰は理想に陶酔したかのような印象を抱かせますが、実は観念論では決して動かず、歴史の中から賢人や豪傑の仕事を捉えようとした人物です。
松陰が吉五郎に獄中で教えたという、「孫子」と「孟子」を物書きとして読み直し、数十年前に買い求めた「講孟箚記」などを読み返し、巷間伝えられている「吉田松陰」という物差しの目盛りを捉え直すことから始めました。山鹿流の兵学から学び始めた松陰の中には、「山鹿素行」の考えがどっしりと居座っています。いろいろと勉強が必要です。

私は松陰の志が、松下村塾の弟子達に忠実に継承されたとは思っていません。特に幕末を生き延び、権力を恣にした伊藤博文や、山県有朋にはその欠片もありません。後の多くの疑獄事件がそれを証明しています。
松陰自身も死の6日前、獄中から、萩の岩倉獄に投獄されていた入江杉蔵(九一)に宛てた長文の手紙の中で、「要之諸人才気齷齪、天下の大事を論ずるに足りず、我が長人(長州人)をして萎薾せしめむ」とあります。
松陰は大分思い詰め、小田村(楫取素彦・妻は2人とも吉田松陰の妹・「花燃ゆ」では大沢たかおが演じました)や久坂(久坂玄瑞・この男なかなか食わせ者です。「花燃ゆ」では東出昌大が演じました)たちは、私が伝馬町の獄舎に繋がれて、5ヶ月以上になるが、手紙ひとつもないと、友や子弟達の優柔不断さを嘆き、「要は長州人は、才気はあるが心狭く、冷淡であり、そんなことでは天下の大事を論ずることは出来ないではないか」と嘆いています。
松陰は長州人の本質を見事に言い当てています。しかし、殆どの作家は、冷徹な視点を自ら放擲するように、松下村塾の弟子達を殊更持ち上げます。いつの世にも、磨いても玉にならない、あるいは才に溺れる人間はいるものなのです。いかに天才的な教育者吉田松陰をしても、心賤しい者はそう簡単に矯正されるわけではありません。かといってあまり長州人を毛嫌いすると、これまた会津びいきの早乙女貢さんのように、高杉晋作を一方的にチンピラ扱いにしてしまうというのも考えものです。まあ、20代の人間達が明治維新を動かしたのですから、言葉悪くいえば「未熟な青二才集団」には違い無いのですが……。

そんなわけで、既成概念を払拭するには気分転換が必要です。
7月の4日の夕方から翌日5日一杯、石和、甲府に行って参りました。私が非常にお世話になっている長澤邦夫、千鶴子ご夫妻が、「右楽」という美味しいおそば屋さんを営んでおります。(基本的には月曜日と火曜日、水曜日が休みなのですが、冬の時期は降雪のため長期休暇にはいりますので、お出でになるときは確かめて……)もりそば1枚のためにはるばる東京から訪ねてこられる方も多いというお店です。
私にとって、ご夫妻は小説の筋立てのヒントや、出来上がった作品を批評していただく大切な方々です。長澤兄は様々な顔を持つ方で、早稲田の商学部を卒業の後、色んな職種を経て、何と花火師の経歴を持っています。蕎麦好きが昂じて、全国の蕎麦を食べ歩き、蕎麦の原料を仕入、蕎麦汁の返しなど自分が納得いくものを作り上げて現在に到っています。桃の咲く頃「右楽」さんのカウンターから眺める景色はまさに桃源郷です。
一人息子の皓一さんは、単身フィレンツェに出かけ、その心意気と実力を現地の料理界のドンに認められ、そこでしっかりと修業したあと、現在甲府市内でイタリアレストランTrattoria Boboli(トラットリア・ボーボリ)というお店を営んでいます。5日のランチに、カルボナーラの白トリュフ(「食べ物の王者」です)のせを頂きました。まさに絶品、感動の味でした。デザートのパンナコッタも「う~ん、美味い」と思わず唸ってしまいました。お孫さん達2人もカナダに留学しておられ、夏休みで日本に戻ってきたばかりということでした。なんとも国際的です。
長澤兄のボランティア活動も国際的で、ラオスに学校を2校建て、維持管理するなど、70を過ぎた爺さんの発想からは飛んでいます。凄いなと尊敬する人生の先輩です。
「右楽」さんのHP  http://www.uraku-info.com/
Trattoria BoboliさんのHP  http://www.t-boboli.com/colazione/index.html
甲府、石和に行かれた際は、お時間があれば、是非お立ち寄りを。

さて7月も第2週。外せない雑事とおつきあい、大事な「飲み会」、弓道・居合の稽古、試合、初心者指導日などをカレンダーの予定表に埋め込んでいくと、空きがなくなりました。
肝心の執筆作業は、今年中に「風浪の果てに」を上梓する予定にしています。
「秋の遠音」、「空の如く」、「言挙げぞする」という随筆集、そしてシリーズ短編時代小説「初音の裏殿」の主人公はもとより、脇を固める多彩な登場人物の出自、性格、人間関係などの詳細設計と時代背景、シリーズ20作に絡む実在した歴史上の人物達との絡みなどを練り上げていきます。これら全ての予定をこなすとなると寝る時間が無くなってしまいますが、歳を考えてそこそこにしないと……、多少の予定遅延はご容赦ください。
この2日間、長澤兄のご家族のお陰で、すっかりリフレッシュさせて頂きましたので、「風浪の果てに」の第3章、そして吉五郎が三宅島に流されてからの第4章としっかりと書き進める事が出来そうです。
主人公沼崎吉五郎には、絶望の奈落のその先に、更なる波瀾が待ち構えています。果たしてどのような結末を迎えるのでしょうか……。仕上がりをお楽しみに。
春吉省吾 2016.7.6
右楽さん・本日定休日右楽さんの竹林長澤家長澤邦夫・皓一さんと私富士山の雄志武田神社恵林寺恵林寺庭園

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本日休業「右楽」さん

宿泊させて頂いたベランダから、青竹の美しい空間が拡がる。

Trattoria Boboliにて 長澤家の皆様方。長澤ご夫妻、皓一さんご夫妻と、カナダから帰国していたお孫さん達。

長澤兄とご長男皓一さんと私

朝、食事前に、新道峠に連れていって貰いました。富士山の絶景ポイント。天気の良い時には富士山と真下に河口湖が望めるそうです。この日は青空が拡がるも、裾野は曇に覆われていました。しかしこの幻想的な富士の姿も美しい。

武田神社にて

恵林寺の山門。武田氏を滅ぼした織田信長は、匿った者達を引き渡すように快川和尚に命じたが、和尚は拒否。信長は山門に快川和尚をはじめ百人の僧侶を閉じこめ火を放つ。左右の柱に「安禅必ずしも山水を用いず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し」の辞世が記されている。境内には武田信玄公の墓や、柳沢吉保夫婦の墓もある。

夢窓国師築庭の恵林寺の庭園。パンフレットには、この後国師は西芳寺苔寺や天竜寺の庭も築庭されたと書かれていた。外廊に坐って視線をあげると、借景の山並みが溶け合う。その先には、中山介山の時代小説の書き出しの大菩薩峠があるはず……。

 

 

「春のみなも」と「経営の嘘」の内輪話

「物書き」春吉省吾には拘りがあります。つい最近までデザイナー・イベント設計などを生業としていたことから、本文の物語性というだけでなく、表紙や装丁、キャッチコピーや、目次前に記載した和歌や古文書などの引用は、物語に、より深みを与えたいという明確な意図をもって自分自身で作り上げます。
ご存じのように「春のみなも」の上下には、古今和歌集から1首、金槐和歌集から3首、上下巻に2首ずつ掲載しています。この4首は、いずれも主人公「初」の心象を表現しています。そして「金槐和歌集」から3首引用しましたが、その作者、源実朝は鎌倉幕府三代目の征夷大将軍で、鶴岡八幡宮で暗殺された薄倖の武人です。源氏の将軍はそれによって途絶えてしまいます。初のもとを去り逝ってしまった男達の鎮魂歌という意味もあります。
冒頭に出てくる上下各2首の和歌の意味合いを気付かずに、読者の多くは読み飛ばしてしまうかもしれませんが、一度読み終えて、再び開いたときに、この上下2首はより深い印象をもって味わって頂けると思っております。

漏らしわびぬ 信夫の奥の 山深み 木隠れてゆく 谷川の水
心の中を打ちあけられず、この胸は痛む。信夫の奥の山深く、
谷川の水が木の陰をひそかに流れていくように、人知れず恋をする私。
(金槐和歌集・春・四百三十七 源実朝)

また、佐藤祥一名で上梓している「経営の嘘」の冊子裏表紙(カバー表紙の内側の表紙)には、面白いことが記載されています。そのまま転記してみましょう。

表紙の「五芒星」をかたどった「結定往生之秘印」は、安倍晴明が閻魔王より給わった「秘印」と伝えられている。京都真正極楽寺真如堂から受けた御札である。
日本の平安時代の陰陽師、安倍晴明は五行の象徴として、五芒星の紋を用いた。
印にこめられたその意味は、陰陽五行説、木・火・土・金・水の五つの元素の働きの相生・相克を表したものであり、五芒星はあらゆる魔除けの呪符として重宝された。
陰陽道というとおどろおどろしいが、仏教、儒教、道教と全てを統合した、宇宙のあらゆる動きが表現されている。
意志決定に迷ったら、本冊子に手を置いて、「神よ、仏よ、次はそちらの番だ」と叫んでもいいし、じっと沈思して心を落ち着けるのも良い。
それらのことは「呪術に凝る・現世利益を頼む」のではなく、「自分自身の思考の凝りを解き放つ」ためのものである。
◆ 尚、本書売上げの一部を、ご祈祷料としてお納めいたします。

このように記載してあります。
本来は、編集者のような方がいてコピーを作成するのでしょうが、編集者はいませんので、私自身が作っています。
経営はもとより、一人一人の大事な意志決定は、拙著を読んだからと「はいそうですか」と言えるようなものではありません。理屈を越えた処に各自の行為があって、その結果はそれぞれ個々人が甘んじて享受しなければならないものです。だから、敢えて前述のような言葉を記載しました。事の本質を判っておいでのかたがたには、首肯頂けるものと確信しております。

さて、朝の散歩兼トレーニングコースの途中、近くの神社にお参りをしていますが、2週間ほど前から、社殿の正面に「茅の輪」が設えられている神社があります。
6月の夏越(なごし)の大祓(おおはらい)です。
身についた半年間の穢れを祓って、無病息災を祈るためで、社殿の前に設えた茅の輪を左まわり・右まわり・左まわりと、八の宇を書くように3度くぐり抜けます。
私は無邪気に楽しんでやっています。

ギリシャから日本に帰化したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)が「神道には、哲学も、体系的な論理も、抽象的な教理もない。そのまさしく『ない』ことによって、西洋の宗教思想の侵略に対抗できた。神道は西洋の近代科学を喜んで迎え入れる一方で、西洋の宗教にたいしては頑強に抵抗する。これに戦いを挑んだ外人宗教家たちは、自分らの必死の努力が、空気のような謎めいた力によって、いつしか雲散霧消させられるのを見て茫然とする。それもそのはず西洋の最も優れた学者でさえ、神道が何であるか解き明かした者は一人もいない。(中略)
日本人の魂は、自然と人生を楽しく愛するという点で、誰の目にも明らかなほど古代ギリシャ人の精神に似通っている。この不思議な東洋の魂の一端を、私はいつしか理解できる日が、きっと来ると信じている。そしてその時こそ、古くは神の道と呼ばれたこの古代信仰の、今なお生きる巨大な力について、もう一度、語りたいと思う」
ハーンの素晴らしい把握力です。
私にとっての「祓い」とは、「夏越の大祓」の様な機会を捉えて我欲、我見、執着心などの異心を祓い、自分自身の心と向き合って、おおらかな気持で日常を見つめ直すという類いのものです。つまり「経営の嘘」の裏表紙に記載したとおり「呪術に凝る・現世利益を頼む」のではなく、「自分自身の思考の凝りを解き放つ」ためのものです。そういう風にご理解ください。
春吉省吾 2016.6.23
紫陽花紫陽花3紫陽花2

 

 

 

 

 

 

 

紫陽花にも色々な種類がある。土の成分によっても色が変わる。もっちりとした紫陽花の風情はまさに、梅雨の風物である。ただ、残念なのは、散り際が汚い。 そこに「盛者必衰の理」や「諸行無常」の本質を捉える感性がほしいのだが、日本人の穢れの感覚と花に対する拘りがそれを妨げる。
鎌倉のお寺では、枯れてしまう前にあじさいの花を摘んでしまうという。(写真は家の近くの散歩道)
茅の輪・代々木八幡
茅の輪くぐり いつも行く「代々木八幡」2016.6.20
東京オペラシティ

 

 

 

渋谷区と新宿区の境界です。
右側が「東京オペラシティ」、新東京国立劇場はこの奥。
2016.6.22
新宿中央公園

小雨の「新宿中央公園」
さすがに、だれもいない。
新宿のど真ん中の緑地。直ぐ西は都庁。今日から参議院の公示、道には選挙カーが走り回っていた。2016.6.22
熊野神社・新宿

 

中央公園の北側には「熊野神社」がある。
大きい神社だが、「茅の輪くぐり」はなく、一寸残念。小雨の中、コースを変えて来たのに……。
2016.6.22