随筆「言挙げぞする」のテーマ VOL.39


 

 

 

 

新宿駅南口 サザンテラスと、新宿貨物駅跡にでた タカシマヤタイムズスクエアを結ぶイーストデッキ。このうえから眺める新宿駅もなかなかいい。

 

 

 

 

 

6番線には成田エキスプレスが発着している。

 

 

 

 

 

NTTドコモ代々木ビル、時計台が印象的だ。

 

 

 

 

 

 

右のビルは、去年の11月末から今もお世話になっている総合病院。新宿南口からは歩いて5分とかからない。

 

 山手線や地下鉄に乗っている7~8割の乗客がスマホを弄っている。私は、今でもこの景色とその雰囲気になじめない。これは日本独特のものなのかと調べると、シンガポールの地下鉄でも、バンコクでも台北でも同じ様な光景が見られるという。
ただ、マスクをしている歩行者が異常に目立つのは、北京を除くと日本ぐらいだと思う。かく言う私も、十数年来のアレルギーと花粉症で、外出時には使い捨てマスクをしている一人だ。

 今年は、目も鼻も喉も、嚔もかつてない程激しく反応している。花粉症と付き合うことは、生きている証拠だから、感性が鈍くなるよりは、遙かにましだと思うことにしている。
鈍いというと、自らの職務に対し、政治家、官僚の鈍感さは目を覆うばかりだ。確かに、官僚の中には、ずば抜けて頭の切れる人物が多くいる。しかし、その知恵は全て自己保身で、地に足が着いていなかったらどうであろう。国民のための政府・省庁ではなく、責任回避と組織保全が最優先なのだ。そのツケは全て日本国民が負わされる。堪ったもんじゃない。

 大臣や官僚の答弁は、その場逃れで、空虚に響いてくる。追及する野党の言葉も、十年一日の如く使い古された言葉から一歩も出ていない。
政党、各省庁に止まらず、日本のあらゆる組織のたかが緩み、惰性に落ちている。それは、非営利団体の協会、連盟などにも蔓延している。企業であれば、常に革新しなければ、存続も危ぶまれ、社会から淘汰されてしまうという緊張感がある。しかし上述した組織にはそのような緊張感は無い。マネジメントの何かを知らない人間が、たまたま権力を握ってしまうと、その多くは特別偉くなったように勘違いをしてしまう。彼等は判断基準になる物差しを持ちあわせていなものだから、目先のことしか見えないし、自分にとって都合のいい決断しかできない。彼等にとって、将来その組織がどうあるべきかということは考えられないのだ。

拙著「言挙げぞする」という随筆は、「歴史観」「宗教観」を根本から見直そうというのがテーマだ。日本人は実に優秀な民族だが、調子に乗りやすく軽薄なところがあるのは否めない。それは今に始まったことではない。
歴史の転換点を見ても、軽佻浮薄は、明治維新以来のもので、何ら是正されていないし、むしろ悪しき慣習は一層増幅された。塗炭の苦しみを味わったはずの73年前の太平洋戦争の敗戦以降も、掘り下げた歴史認識をしてこなかった。そして今、中途半端なまま、我々は近未来の環境を一気に変える「シンギュラリティ・Singularity(技術的特異点)」の地点に立っている。シンギュラリティとは、AIが人類の知能を超え、それがもたらす世界の変化のことをいう。

我々は18世紀後半から19世紀前半の「産業革命」などよりも遙かに激しい、人類史上最も矛盾を抱えた世界に生きているのだが、なかなか実感が伴わない。
流されるままに生きて、人生の濃さを知らずに、逝ってしまうのは最高のシナリオのひとつだろうが、そうは問屋が卸さない。残念ながらそういう方は、最後の最後に「こんな筈じゃなかった」と悔やむのだ。だがその時は手遅れである。生死観が定まっていないと、軽薄な慣習、誤った伝統に翻弄されたまま、本来知るべき人生の濃さを知らずに人生を終えることになってしまう。

 最近、散歩していると「顔付きの悪い」中年・老年者と擦れ違うことが多くなった。
「生きるための物差し」が無いから、物欲と世間体を気にしながら、漠とした不安にさいなまれている方が増えているのだろう……。これは辛い。
「言挙げぞする」は、そんな不安解消に、多少なりとも参考になれば、筆者としては嬉しい限りだ。
2018.4.13    春吉省吾

 

「言挙げぞする」と桜の経年劣化 VOL.38



「言挙げぞする」の最終校正の息抜きに、近くにある遊歩道の桜を見に行った。今年は例年より開花が早く、あっという間に満開になってしまった。しかしここ数年、桜の花びらが色褪せ、白っぽくなって本来の張りのある色が薄くなり劣化しているように思える。
我々が目にする桜の8割は、ソメイヨシノといわれる品種で、手入れを怠ると60年ほどの樹齢だという説もあり、近年、代替品種への植え替えが行われている。
ソメイヨシノは、江戸時代末期に江戸染井村(現在の東京都豊島区)の植木屋が「吉野桜」と称して売り出した、200年に満たないサクラである。
日本人に長く親しまれている山桜に比べると、ソメイヨシノはサクラ界の新参者である。
明治維新後の新政府は、「廃仏毀釈」をはじめとして、徳川時代から続く様々な体制を排除した。
あろうことか桜の名所にあった山桜は、政府の意向で新しく登場したソメイヨシノに植え替えられ、あっという間に全国に広まった。
もともと人が接ぎ木をして作ったソメイヨシノ。植えられて40年経ったころから弱り始め、何も手を掛けずにいれば衰退はいっそう進み、60年を過ぎると経年劣化が早まり、無残な姿になってしまうという。
戦後、公園や遊歩道に植えられたソメイヨシノは、私の感覚を俟つまでもなく、明らかに花びらが、白っぽくなっている。ソメイヨシノは単一クローンであるため、全ての株が同一に近い特性を持ち、突然変異以外に新しい耐性を獲得する可能性はなく、害虫による食害、環境による樹勢低下など一斉にその影響が現れる。山桜のように力強くないのである。
ソメイヨシノの劣化現象は、明治維新以来、あるいは敗戦後、歴史観や宗教観を、根本から精査することを怠ってきたツケが廻った我々日本人の有り様と驚くほど相似している。
自然種の山桜(吉野桜)、大山桜、大島桜などは、樹齢が長く、江戸彼岸桜などは、樹齢2,000年、1,500年など、いきいきと大地に根を張っている巨木もある。
人為的に作られた、ソメイヨシノはひと言で言えば「非常にひ弱」なのだ。自然種のように厳しい環境で根を張って自生することができない。「生きる」厳しさに耐えられないのだ。
「桜の劣化が、大変なことになっている」と騒ぐのも大切だが、自分自身の近視眼的な歴史観や宗教観をしっかりと見直すことが先決で、「その後に桜の心配をせよ」と言いたい。
現代社会では、大学受験・就職と、20代30代前半で全ての勝ち負けが決まる硬直的なシステムになっている。これは官僚システムに著しい。しかし実社会での体験を経て、本質的な勉強が必要だとわかるのは30代後半から40代なってからなのだ。その時期に、ハウツーに陥らずに、物事の本質を学び精神の土台を自分自身で学んでおかないと困ったことになる。
日本人の平均寿命は、男性が80.98歳、女性は87.14歳となり、健康寿命は男性が72.14年、女性が74.79年。寄って立つ「足場」を養生しなければ、ソメイヨシノのように、受身でただ生きているだけとなってしまう。老後は長い。まして我々人間は、確たる「生死観」を持たないと、精神の荒廃した悲惨な老後が待っている。最低限の経済保障、身体的な健康は勿論だが、自分で考え納得できる「生死観」、生き方を掴まないことには不安が増殖するばかりである。
拙著、「言挙げぞする」をお読みいただければ、今貴方に何が必要か、その覚悟のあり方も含めて、皆様のお役に立てると信じている。
2018.4.3    春吉省吾