生きる不安を増幅させないための処方箋VOL.41


 

 

 

 

 

 

 

2018.5.15。アマゾン「エッセイ・随筆」のジャンルの「おすすめ順」の表記より。
タレントの代筆者の書く、エッセー・随筆本が多い中、「言挙げぞする」のような硬派な随筆は、なかなか売れないと思う。この手の本の読者がもっと増えれば、日本も捨てたものではないのだが……。

 

 

 

 

 

 

 

「紀伊國屋」のネットショップにもアップされました。5.13。

 

 

 

 

 

セブンネットショッピングにも「言挙げぞする」が販売開始。以下、春吉省吾の長編時代小説がラインナッフ。5.12。

 

 

 

 

 

 

 

 

新宿中央公園から見る都庁
丹下健三氏(構造設計は武藤清氏)の設計、1991年4月に丸の内から移転した。東京のシンボルとはなり得たが、使い勝手は悪そうだ。2006年に、雨漏りの補修に約1,000億円が必要と日本経済新聞の記事にあった。特殊なデザインのため、一般的な補修方法では対応できないという。次世代の設計者は、建物維持コストも予測して、「はじめて設計のプロである」という自覚を持ってもらいたいものだ。2018.5.6

 

 

 

 

 

新宿中央公園」今年は開園50周年だという。新宿の中心に、緑豊かな公園があるというのはいいものだ。


 

 

 

 

連休最後の5月6日、西新宿にかかる、歩道橋から青梅街道を望む。
道路の混雑は全く見られなかった。

 

「言挙げぞする」の一般発売は5月12日、アマゾンは20日の予定だったか、流通の手配で早くなった。5月10日には、アマゾンも、7ネットも、紀伊國屋書店、ヤフー、楽天なども販売を始めた。
これまで私の書いてきた小説は、一般的な「長編」よりもさらに長い。一気に読むには気力と、読書力が要る。(これまである意図を持ってそうしてきたが、今年から「中編」執筆も始める)
今回の随筆「言挙げぞする」は、冊子の厚さから言えば、中編で、難しい言葉はあまり使っていないが、日本人のあるべき「歴史観」「宗教観」を認識してもらうには、仏教語(禅語)、神道用語、大和言葉など、最低限の言葉の説明は避けて通れない。というわけで、読者の方々に聞き慣れない言葉があると思うが、暫しおつきあいいただきたい。
人は生まれて、生き、どのように死んでいくのか、そして死後は……、自分自身と向き合ったとき、「生死観」を定める物差しを持たず、私の一生は何だったんだと、じたばた悔やんでも、取りかえしがつかない。
そうならないために、「生きる根本」を知り、そこから派生した「生きるための技」を使う必要がある。

人が病気になったとき、対症療法と根本療法の2つがある。
対症療法とは、疾病の原因に対してではなく、主要な症状を軽減するための治療を行う。例えば風邪をひいた時に、咽頭痛に対して鎮痛薬、発熱に対して解熱薬、咳に対して鎮咳薬を服用する。
一方、症状の原因そのものを制御する治療法を根本療法、あるいは原因療法という。病気の原因となっている外部環境や体内に侵入した異物を取り除き、自然治癒力の助けにより、本来の正常な状態に戻すための医療である。
こう書くと、対症療法と根本療法は対置される療法と思われがちだが、この両者はあくまで相対的かつ補完的なものである。
アトピー性皮膚炎では、根本原因である免疫の異常に対する原因療法は未だ確立されていない。従ってステロイド外用薬や抗ヒスタミン薬により炎症を抑える対症療法が行われる。これにより湿疹→痒み→掻きむしり→湿疹という悪循環を断つことができるため、症状を抑えることが部分的には根本療法にもなっている。私の経験からもそうである。

同じように癌の三大療法として「手術・抗癌剤・放射線」療法がある。早期発見で癌組織を完全に取り切ることが生死を分けるが、同時に自己治癒力をしっかりと高めておかないと、再発率のリスクは高いままである。つまり自己治癒力を高めるために、根本療法として「生き方そのものを変える」ことが必須である。
「生きる根本」と「生きる技」を上手に使い分け、使いこなしをすることと、病気への対応の仕方は同じということがわかる。しかしそうはいうものの、生活習慣を是正することは難しく、それこそ日々の地道な努力を要する。
「言挙げぞする」という随筆本は、既成概念や、誤った慣習の認識を是正してもらおうと纏めたものだが、わが身の生活を顧みれば、大分偏った無茶な生活をしている。日常生活が即「生死観」に繋がるのだから、第一に猛省しなければならないのは、私自身なのだが……。

2018.5.17   春吉省吾

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「言挙げぞ(我が)する」という知的バトルVOL.40

言挙げぞする」の冊子が、私の手元に届いた。独りで執筆、装幀・デザインした冊子を自分で誉めるのは手前味噌だが、ご苦労様と言いたい。
内容は、かなり踏み込んで書き上げているが、学術論文ではないので、そう難しくは記載していない。かといって、簡単に書きすぎると誤解を生む。というわけで、硬軟取り混ぜて仕上げてある。
特に、宗教観のあるべき姿を認知して貰うのは難しい。最初は、読み飛ばしていただいて構わない。何しろ、神道、儒教、道教などは、誤った認識が一般「常識」になっている。従って、初読は「そんなことは誰からも聞いていない」と拒否反応を起こすはずである。無名の物書きが偉そうなことを言うなという反発もある。それが当然だと思う。頭がパニックになるかも知れない。「言挙げぞする」の内容はある種のカンフル剤のようなものだが、こけおどしでない証拠に、読み直していただくと、既存の「常識」は誤りだと知ることになる。じっくりと筆者との知的バトルを楽しんで欲しい。

平成元年(1989年)に入会した「同根会」という経営研究会で、私は、伊藤くみ子先生という不思議な雰囲気を漂わせた「お婆さん」と出会った。会の特別顧問のような立場で、私が入会当時、伊藤先生は78歳だったと思う。詳しくは、拙著の「むすんでひらいて」の章に譲るが、この時初めて「古神道」という言葉を聞いた。
伊藤先生は全くの独学で、神道的な言葉を用いながら「命の構造」の理論を作り上げたのだが、その先生の言葉にこうある。
「神道というと、日本人は十分な認識がないにもかかわらず、勝手な固定観念に捕らわれている。だから私が色々言うと、左翼からも右翼からも、新興宗教の団体からも睨まれて、なかなか大変なのですよ」と言って日本人の誤認識を笑い飛ばしたのが印象的であった。
思うに、考古学の分野も科学の進歩により、縄文時代は今から1万6000年前というのが主流になりつつある。従来よりも3千年も古いという認識だ。「神道」の成り立ちも、日本独自の思想であるという考えは誤りで、縄文の基層精神をもとに中国の道教思想を引用したものだ。
思えば、仏教も、儒教も日本流にアレンジされて、それが一人歩きして現在に至った。既存の学者や宗教者はそれを知りつつ、従来の認識を変える事はない。ならば、その「源」と彼等の寄って立つ立場と比較してその正当性・必然性を示すことが、知的指導者としては当たり前の責務であろう。しかし、いまだに無いが……。
拙著で記載したマスコミの「自主規制」も、その根拠は曖昧で、詰まるところ組織の自己保身である。大宅壮一の言葉ではないが「一億総白痴化」した国民の、つまらない批判と係わるよりは穏便に、というわけだ。また、財務省をはじめ国家中枢の頭脳集団の不祥事は、戦前の陸海軍の幹部達と何ら変わらない「頭でっかち」な独善的組織であることを露呈させた。
「言挙げぞする」で指摘した様々な事象は、本来、私のような浅学な物書きの書くことではない。右からも左からも宗教団体や、お偉い学者先生、個癖に凝り固まった方々からも、マスコミからも、恨みは買いたくないのだが、書いてしまったのだからしょうがない。
拙著が、日本人として正しい「歴史観」「宗教観」を持ち、ひいては、いかに生ききるかという、生死観をじっくりと考える、よすがになれば、嬉しい限りだ。

アマゾンネットショップには、5月20日発売で、アップしています。
2018.4.28   春吉省吾

 

 

 

 

 

私の手元に届いた新刊「言挙げぞする」


 

 

 

 

山手通り・上原近辺、躑躅がきれいだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

日本最大の回教寺院(モスク)、東京ジャーミイ。

 

 

 

 

 

東京消防学校の訓練風景。チームワークの妙。