「秋の遠音」吉村春明と屋山外記におもう VOL.94

●サルスベリ。「百日紅」とは不思議な名前だ。「百日後には必ず戻る」と言い残して、王子は旅立った。しかし戻ってみると娘は亡くなっていて、娘のお墓がある場所から、1本の木が生え、花を咲かせた。その花は、愛しき人を今か今かと待つかのように、百日間、咲き続けたといいます。
●思いがけない、光スペクトラム。虹のよう。
●10月2日、台風一過、秋晴れ。都庁を望む。

「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」とは、豊臣秀吉の水攻めの際に、備中高松城主清水宗治(しみずむねはる)が詠んだ辞世である。主将一人切腹することで、家臣達の命を守った。私は今、現世からあの世に旅立っていくが、せめて我が思いを高松城の石垣の苔に残したいという敗戦の将の心境である。また、時代は下って、1945年終戦とともに東久邇内閣の外相となり、同年9月2日アメリカ軍艦「ミズーリ」号上で日本側首席全権として降伏文書に調印した重光葵(しげみつまもる)は「願くは 御國の末の 栄え行き 我が名さけすむ 人の多きを 」と詠んだ。いつの日か、日本人の手によって、日本が元通り主権国家となり、そして栄えるために捨て石が必要ならば、自分がその捨て石になろう。多くの日本人よ、屈辱的な歴史的役割を果たしている私を蔑み、越えてくれと、重光は降伏文書にサインした。この後、多くの気概ある日本人で満たされることを願って彼は調印式に臨んだのだ。

しかし日本が合衆国に負けるやいなや、始めから戦争反対だったかのように振舞い、GHQに媚びた人々が多くいたし、日本を売り自らを貶める多くの似非知識人は今も増殖中だ。重光の屈辱感は、前後76年たった今、薄れてしまった。吉田茂以来、日本はアメリカに甘え、ひたすら物質的成長を志向し、矜持を忘れた。未だに日本は「独立」さえしていないのではと忸怩たる思いに駆られる私自身である。気づいてみれはこの30年、(財務・通産・財界がその元凶だが)、日本人の実質所得は低下し、大して努力もせずに、日本人の働いた果実を吸ったアメリカの平均所得は(ここでは貧富の格差は触れない・あくまで平均)3倍、ヨーロッパ諸国は2倍、中国は5倍になった。標榜していた、日本国民の「物質的幸福のみの追求」にも失敗したのだ。

重光については、ここでは多くを述べないが、実に波乱に満ちた気骨のある外務官僚である。

1932年中国公使として上海事変の外交処理にあたったが、上海の天長節祝賀会場で朝鮮人尹奉吉に爆弾を投げられ重傷を負い、片脚を根本から切断した。以後、10キロ以上の義足を付けて活動した。 重光は戦中の様々な外交の場面に登場する。ミズーリ号の調印のあと、1946年A級戦犯容疑で拘束され、50年仮釈放になり、52年公職追放解除ののち改進党総裁に就任したが、翌年の総選挙で改進党がふるわず、吉田茂と首班を争い敗れた。

さて、「冬」「春」「夏」と四季四部作・長編歴史時代小説の最後の季節を飾った「秋」。
その「秋の遠音」は幕末から明治初期の激動期を通して、主人公吉村土肥助(春明)を軸にした、壮大な物語である。(吉村春明は歴史上の名の知れた人物ではないが実在した「希有」な人物です)
その主人公と幼なじみの若き国家老屋山外記(ややまげき)は、下手渡振興のために腐心する。吉村春明と組んで、井筒屋の番頭、後の古河財閥を興す古河市兵衛の尽力もあり、蚕種経営で下手渡の生活は向上した。三代藩主立花種恭(たちばなたねゆき)は三池の炭坑振興、国元の蚕種の興産が成功したことで、幕閣の中枢、老中格にまで上り詰める事が出来た。しかし慶応4年(1868年)1月9日、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が敗れると、京都守護職・会津藩主松平容保(まつだいらかたもり)は隠居を表明し、朝廷に対する謝罪状を提出して会津に戻った。
当初奥羽諸藩は新政府が仙台藩に派遣した奥羽鎮撫総督に従っていたが、奥羽諸藩は会津藩・庄内藩の「朝敵」赦免嘆願を行い、その目的を達成するための同志的結合が形成されていた。しかし、この赦免嘆願が拒絶された後は、列藩同盟は新政府軍に対抗する諸藩の軍事同盟へと変貌した。
西国では既に、薩長を核として政府軍が東征に及ぶなか、三池5千石、下手渡5千石と370里隔てた下手渡藩は、兄弟藩の柳川藩藩主立花鑑寛(たちばなあきとも)の支援もあって、種恭は新政府に恭順するため分領地三池に戻るが、残された奥羽下手渡本藩はそうはいかない。仙台藩を中心に周囲の米沢、二本松などの大藩が新政府に対抗したか、下手渡藩は周囲の状況から旗幟鮮明にする事は出来なかった。そんなことをすればちっぽけな陣屋など忽ち、焼き討ちされてしまう。
かくして、家老屋山外記の独断で、戊辰戦争中の慶応4年/明治元年(1868年)閏4月23日に白石に赴き、奥羽越列藩同盟に加盟した。
仙台藩は、下手渡藩の動向をいぶかり、藩兵に警戒させていた。藩主種恭とも全く連絡がつかない。種恭に随従していた春明は、下手渡の状況を探り出すべく、下手渡への派遣を願い出るが許可は下りない。家老の外記は古河市兵衛の力も借り、下手渡の住民を仙台藩の警備の隙を窺い、領民達を三春に疎開させた。決死の行動であった。
仙台藩は、柳川藩で編成された東征軍の中に30人ほどの下手渡藩兵が合流していることを知り、下手渡陣屋は焼き討ちされ、村々は強奪された。しかし疎開が間一髪間に合ったので、領民達の死傷者は最少に収まった。
以降、廃藩置県が断行され、下手渡藩はかつての分領地三池県に糾合され消滅した。家老であった屋山外記は、奥州越列藩同盟に独断で調印した責任を負い、外記は武士の一分を守り通し、明治政府には一切関わりを持たなかった。
外記の気持ちを十分に知った春明は、代わって積極的に行動する。しかし三池県の統廃合により福島県官吏となるも大幅降格となり退任。上京して小野組の嘱託となるが倒産、その倒産処理に力を尽くしたあと、初代院長となった種恭に懇願され、学習院創立に関わった。
明治13年(1880年)春明は、妻の葉月の病気療養のため下手渡に戻った。翌年の6月に妻をなくしたあとも、春明は福島町に暮らし、外記達と下手渡復興に尽力する。その後、還暦を迎えた春明だが種恭の実弟の加納久宜(かのうひさよし)に懇願され、最後の就職先として、明治19年(1886年)岩手県尋常師範学校の教師兼書記として赴任し、4年間奉職した。明治23年に現役を引退しようやく飯坂に隠居した。その秋、屋山外記の訃報が知らされた。
足が不自由になっていた春明は、葬儀には参列できず、納骨後、外記の墓前で自作の漢詩を詠じ、こう呟いた。
「外記殿の戊申戦争は、二十二年経ってようやく終わったのだな」
外記は、下手渡藩の「負の戊申戦争」を独り抱えて隠遁に近い暮らしを選び、一切の弁明もせずに逝ったのだ。
清水宗治の無念、重光葵の無念、そして屋山外記の無念。いずれも勝者にあらず、敗者の身の処し方、覚悟である。人はそれぞれの人生の中に多くの無念を抱えながら逝く。
「秋の遠音」の屋山外記の一生もまた、我々の胸に響く。
屋山外記の御子孫の一人、屋山弘氏は、現在も漫画家・エッセイイストとして福島市で御活躍中である。また評論家の屋山太郞氏も御子孫の一人だ。お二人には「秋の遠音」の上中下をお送りした。
お二人には、先祖に関わる小説の完成を喜んでいただき、作中の屋山一族、屋山外記の活躍にも丁寧な感想を頂いた。こころより御礼を申し上げる。
御手許に「秋の遠音」をお持ちの方は、春明と外記の、幼い頃からのやり取りを、もう一度追いかけて欲しい。人間様々な「覚悟」があるということを心に留めて欲しい。未読の方は是非ご購入いただき、一読されたい。
                         令和3年10月3日                             ⓒ春吉省吾


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