「風浪の果てに」~最後の校閲と事実認識~ 

「風浪の果てに」を脱稿してから、2月の13日まで、およそ2ヶ月ほど、最後の校閲と校正に朝から晩まで充てました。神経のすり減る作業でした。
13日が、直しのリミットで、遅れると予定通りに仕上がりませんという印刷屋さんの「叫び」もあり、待ったなしでした。
今回も、手許に仕上がって来た本を前に、暫くは開きたくないという不思議な気持になるはずです。

上梓を前にいろんな疑問にお答えしておきたいと思います。(今回はそのうちのほんの少しです)
「風浪の果てに」を歴史小説と捉えるか、時代小説と捉えるか?
従来は「歴史小説」といえば歴史的事実人物を、「時代小説」といえば架空の人物を描くのが基本という定義でした。しかし歴史小説でも全員100%実在の人物で描かれているわけではありません。フィクションの割合がどれくらいと、読者が判断するものだという現代的定義もあります。両者の分かれ目は極めて曖昧であるといえます。したがって、無理に分ける必要もないというのが、私見です。
「風浪の果てに」という小説は歴史小説でありながら時代小説でもあるというわけです。

時代小説には時代考証がめちゃくちゃなものがありますが?
残念ですがその通りです。
ところで、ひとつ認識して頂きたいのは、時代考証を厳密にすれば、小説もテレビドラマも全く成り立ちません。NHKの大河ドラマも演出家や脚本家の能力によって、とんでもないいい加減なものがありますが、普通はある程度承知の上で、小説化、映像化しているはずですが……。
しかし作家として守るべき最低のルール、例えば歴史的に明らかに動かせない事項、地震・火災などの時間・空間のことまで、いい加減に変えてはいけません。
明らかに勉強不足や資料の読み違えなどはっきりしている原因がありますが、それは読者には判らないことで、それがあるとき、「正しい『歴史』」になってしまうので怖いのです。

具体的なことを数例あげてみましょう。
先ずひとつは、嘉永6年(1853年)6月3日の黒船来航。
黒船がやってくると上も下も大騒ぎで江戸の町は大混乱に陥ったということですが、ペリー艦隊が江戸湾深くまで入り込んで測量したり、礼砲をぶっ放したり、諸藩の武士達が江戸近辺の湾岸警備に駆り出されたりして、多少の混乱はあったようですが、実際にはペリーが浦賀沖に停泊すると、おびただしい人々が沢山の小船に乗って近づいていて見物し始める者まで居たようです。江戸庶民の好奇心は凄まじかったようです。
詳細は「風浪の果てに」の本文でお楽しみください。

実は、江戸中が「外夷」で大パニックになったことがありました。文久3年(1863年)5月8日のことでした。
3月半ばには神奈川奉行から、浦賀、横浜の住民に避難命令が出され、住民達は本気で疎開しました。
江戸も、黒船来航時とは違って「さながら火事場のようであった」と江戸市中の混乱ぶりを、福地源一郎が記述しています。小石川に住んでいた福地自身も、大久保村に疎開する手筈をしました。
福沢諭吉も、米30俵と仙台味噌一樽を購入して、書生に運ぶ算段をして、逃げ支度をししてました。江戸を、いや日本の歴史が固唾を呑んで見守ったこの日は、あまり語られていません。
「風浪の果てに」では、 吉五郎が入牢中でしたので、その記述はありませんが、「秋の遠音」や「初音の裏殿」ではこの顛末が出てまいります。お楽しみに!!

「風浪の果てに」では、吉五郎が入牢している間に「切り放し」がありました。火災によって伝馬町に火が入ると、3日を限りに、出獄できる制度です。ある小説の記述では安政2年(1855年)10月3日に夜半に発生した安政江戸大地震で、伝馬町に火が移って切り放しになったと云う記述がありますが、安政の地震では伝馬町は類焼せず切り放しはありませんでした。
私は、安政5年11月の火災によって伝馬町大牢の切り放しがあったことが「日本近世行刑史稿」に記載されているので、それを採用いたしました。また、上記資料には安政4年3月にも切り放しがあったと記載されていますが、調べた限りではそれに該当する「大火」が見つからずこの「切り放しは」物語にしませんでした。(吉村昭先生の小説「黒船」でも、安政4年の切り放しについては取り上げていません。私もその説に賛成です)
歴史小説の難しさでしょう。裏付けが取れない資料もたくさんあります。

承知の上で書いたのか? 事実誤認か?
名作と言われる歴史・時代小説の中でも、「?」と頭を捻る記述があります。大作家の作品ですから、おそらく承知の上で書いたのだと思われますが……。
作中、井伊直弼が因獄、牢屋奉行の石出帯刀と接する場面があります。しかし、実際にはそのようなことはあり得ません。石出帯刀は世襲の因獄で300俵を拝する立場ですが、不祥の役人として登城も許されず、他の旗本とも交際は出来ない立場でした。縁組みも武士に求めがたく、代々村の名主などの娘を娶っています。つまり、礼法・故実にも通じしきたりを重んずる直弼にとって、不浄の石出帯刀を直截呼び、下命することはあり得ないのです。
同じ様なことは、吉川英治先生の大衆小説の名作「宮本武蔵」の中で、武蔵と沢庵和尚のエピソードなども現実にはあり得ないのですが、読者を喜ばせる「物書き職人」として、あらゆることを承知の上で、大胆な設定をしたのでしょう。
もっともそんな細かな事など、読者は知る必要はなく、楽しめればいいのですが、作者としてはそれらを知らずに浅知恵で書いてしまうと、読まされる読者は堪ったものではありませんね。

春吉省吾   2017年2月16日

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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令和5年1月現在、全日本弓連連盟・錬士六段、全日本剣道連盟居合・錬士六段。40歳を過ぎて始めた「武道」です。常に体軸がぶれないように、手の内の冴えを求めて研鑽は続きます。思い通り行かず、時に挫けそうになりますが、そこで培う探究心は、物書きにも大いに役立っています。春吉省吾

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