長編歴史時代小説「四季4部作」

長編歴史時代小説「四季4部作」の基本理念

愛とは何か、定めとは
日本人が忘れかけた英知と叙情、新しい骨太の大河小説です。

愛とは何か、定めとは 生きる意志とは……。
春吉省吾が日本人に問いかける珠玉の長編歴史小説「春夏秋冬」シリーズ。
そして「風浪の果てに」

「春のみなも」(上・下) 「夏の熾火」(上・下) 「秋の遠音」(上・中・下)
「冬の櫻」(上・下)
  風浪の果てに いずれも新しい骨太の大河小説です。

「今の時代、長編小説など書いたって、誰も読まねえよ。読むのも疲れる」
 この言葉が今の日本の空虚な心を現しているとすると、日本人の民力はあまりにも情けなく、自分の能力を勝手に狭めて過少評価しています。
 世界(地球と言ってもいい)と一人ひとりの日常は、我々の想像を遙かに超えて、複層的、重層的に絡み合っています。
 結果を簡単に求め過ぎ、細切れの表象だけをみても、不安に苛まれるだけです。
私の描く「長編歴史時代小説」では、歴史に隠れている「事の本質は何か」という、哲学・哲理の明確な意志を物語にします。

 この小賢しく世知辛い世間を生きるため、我々は今のままでいいのかと「本気で考える時」が、令和のまさに今、この時なのです。

 令和2年5月に、四季四部作・長編歴史時代小説長編歴史時代小説「秋の遠音」が上梓となり、シリーズ4作全て完了致しました。「風浪の果てに」は平成29年上梓。

 私が書き下ろし長編小説に拘る理由は、作家としての矜持の根幹部分なので、ここで記述しておきたいと思います。
 日本には新聞小説、週刊誌小説以外の「超長編」はほとんど単行本として上梓されません。
また前述の長編小説は、掲載一回分の文字数が制約されるために、込み入ったプロットや重層的思考はなかなか書き込めません。

 しかし書き下ろし長編小説では「哲理」や「哲学」、万葉、古今、新古今、俳諧、謡など「古典」を引用し、日本伝統の精神性を、掲載制約がなく十分に書きこむことが出来ます。
 私はそれらを読者の方に伝えたくて、小説を書いているようなものです。今までの物足りなかった歴史小説に代わって、その部分に嵌まった方々は、私の熱烈な読者になって頂きました。誠に有り難いことだと思っております。


 一人一人には無数の時間と経験が存在し、同時に人間関係は複雑です。それらが相互に影響し合う、人間社会の一端を切り取って作られる物語は、書き下ろし長編小説の真骨頂だと思っております。
日本人が日本人らしく、一人の人間として活き活きと生きるためには、狭量で私小説的な短絡的認識回路を許してきた、前述の「四百枚活字文化」の弊害を吹き飛ばす力が必要です。

 それは日本的「知の復興」であり、不遜を承知で申し上げれば、拙著四部作・並びに「風浪の果てに」はそれに聊かなりとも貢献する作品群だという自負を持っております。

「シン大河ドラマ」という視座

 私自身、この長編歴史時代小説群を敢えて、「シン大河ドラマ」と位置づけるのは、人と人との出会い、対立、協調、別れなど様々な人間ドラマの中で、変わるものと、決して変わらぬものを、当時の風俗、市井の暮らし、物価やも商品など、様々なシーンに具体的に織り込んでいるからです。加えて権謀術数渦巻く、政治の世界をどういう視座で捉えるかが大切です。大先輩の作家先生がお書きになった歴史時代小説と変わらなけれは意味はありません。「シン大河ドラマ」と主張するからには、視野を重層的に広げなければなりません。その広がった視座こそが、現在日本国民が措かれている閉塞的な立場を打破する希望の視座になるからです。

春吉省吾

令和8年3月28日(土) 加筆修正

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