VOL.48を飛ばして、49を皆様にお届けします。実は、VOL.48は「纏わりつく嫌な感じ」というタイトルで書き始めましたが、きちっと章立てして読者の皆様へ私見を述べようということになりました。400字詰め原稿用紙で150枚ほどになります。身近な「様々な問題」を歴史的に比較検証して、読み応えのあるミニ冊子にしようと思っています。

さて、今年の東京の紅葉は、かつてない激しい暴風雨の塩害によるものなのか、赤系の落葉樹が中途半端に枯れて無残な姿です。辛うじて、生命力のある銀杏が黄色い色を付けていますが、勢いはありません。
毎年見慣れた風景ですが、今年は私にとって「劣化」を超えて「醜い」と映りました。
私自身、この11月に誕生日を迎え、肉体的な衰えは勿論、記憶力減退、気力の維持などは確実に劣化していると自覚しています。せめて「劣化」から「醜悪」にならいように、日常的にかなりストイックなトレーニングや思考法をしています。
今回は恥ずかしながら、その一端をほんの少しだけ話題にします。
今までは、自分自身や家族を犠牲にして、世間体にかかずらうことが多々ありましたが、病気を機に止めることにしました。「公職・名誉職」などは一切お断りすることにしました。あと何年生きられるか、あと何作創作できるかと逆算して、体重管理や食事の買い出しから調理と殆ど自分でやっています。私の健康にとって一番の問題は「睡眠」です。これまでの4、5時間の睡眠では、疲れが溜まって、抵抗力がなくなり、病気を誘発します。最近は、疲れが溜まったときは、二度寝をしても、決して無理をしないことにきめました。しかし何十年と、睡眠導入剤を利用し、午前2時3時にやっと就寝という、生活習慣病の典型のような生活をしてきましたので、そう簡単に11時に寝て、6時に起きるという「健全」な生活に是正できるはずもありません。
漸次、午前1時までに就寝するのが目標です。
作家の五木寛之氏は、昼と夜の真逆な作家生活を送っておられるようなのですが、あのお歳(86歳2ヶ月)で、頭もクリアです。NHKの午前中の番組出演のために、寝ないで出て来たというから、その気力は凄いものです。ちなみに同年同月同日生まれの石原慎太郎氏は8時間睡眠を取らないと機嫌が悪いというから、比較するまでもなく五木氏の方がはるかにシャープな頭脳を持続しておいでのようだ。どうやら生活習慣病の定義は、杓子定規に決められるということでもないらしい。

週2回、午前中の弓道の稽古日以外は、雨が降らなければ、一日1時間20分、ジョギング・ウォーキング、公園のベンチを利用して腹筋40回、更に居合の立ち技のシャドー稽古をすると、真冬でも汗びっしょりになります。帰り道に、夕食の食材買い出しも済ませます。
トレーニングをしない弓道稽古日の方が、身体は重いと感じます。遅めの朝食と昼食を兼ねた献立はその日の気分次第ですが、納豆と生野菜とヨーグルトだけは欠かしません。外食は、カロリーがコントロールできないので殆どしません。
それ以降、外出の予定がない限り、夕方の6時半まで机の前から動きません。夕食を作って、食事をして7時半からまた机に。生活のリズムが全く違う妻は、週3回夕食を作ります。
同世代の方々と比較して、頭が多少クリアでいられるのは、日常の雑事を人任せにせず、想像力と感性を働かせているからでしょう。
例えば、同じ納豆でも、メーカーや、様々な品種、大粒、中粒、小粒、ひき割りなど、超高級品から特売品まで、全国で何百種類もあります。しかし、毎日食べるものだから、価格も大きな要素となります。何百と試した結果、私好みの納豆は自ずと決まります。
たかが納豆ですが、そこには「流通・マネジメント」の全てがあります。スーパーによって、取扱いメーカーや、値段の差、搬入のリードタイムも大分違うのです。私の周囲にある、半径1.5キロ内のスーパー10軒に限っても、それはわかります。
「そんな細かな事にガタガタ拘るなんて」と思った方は、頭がマンネリ化して日常を惰性で生きている方です。「納豆」一つ取っても、メーカーの創意工夫、流通の進化、最前線が見えてきます。
表層だけみて、そんなもんだと鈍感になってしまうと、地に着いた経済活動や経営活動から遊離してしまいます。細部に心配りの出来ない人間が、豊かな人生を送れるわけがないのです。
大袈裟に言うと「ひとりひとりの何気ない日常の中に全事象があり、それが体得できれば、それだけ世界が、宇宙が見えてくる」のです。
あるいは「神は細部に宿る(God is in the details)」とは、モダニズム建築で名高いドイツの建築家ミース・ファンデルの言葉と云われていますが
「細部の論理を維持していくことで、全体の論理が機能する」という意味でしょう。この場合の「神」とは「大いなる存在」あるいは「絶対的な存在」と言い換えることもできます。「細部」とは、我々の日々の行動の細部、人生の細部ということです。

「細部へのこだわりを実行に移す」というこの発想は、最近ではデザインの分野のみでなく、スポーツやマーケティング、モノ作りの分野からエコロジーの考え方まで広く言われだしました。もっと範囲を拡げると「武芸」も能、歌舞伎などの「伝承芸能」もその基本は同じです。
経営学で言う、物づくり、サービス業、「お客から始まり、お客で終わる」というサプライチェーンも、武芸、芸能あるいは禅などの「呼吸に始まり呼吸に終わる」という日常修業も実は同根なのだという認識を持って頂きたいのです。正しい基本を維持するためには、つねにブレを修正する調整能力を磨くことが大切です。微細で微かな変化を感じ取れる身体感性を維持し続けるために倦まず努力をすることです。(ここは大事な部分です)
20年前に私が提唱し、講座を持った「心身経営学」とはこういうことです。

それはどういう意味なのか、歴史を遡って、その一端を見ていくことにします。
天才といわれるごく一握りの武術家は、瞬時に身体感性を体得できる人間です。天才の中の天才、宮本武蔵は13歳から29歳までに60数回の決闘を行い、無敗だったそうです。しかしその宮本武蔵も、年老いて中津藩主・小笠原長次の後見として島原の乱に出陣して、一揆側の投石で脛を負傷し戦線離脱してしまいました。
年老いて、修正・調整能力が失せ、飛び道具には弱かったということです。
考えて、実践し、また考えて、実践していく、その調整活動が、正しい設計(戦略・戦術)に基づきなされたときに、その武術家は、「名人」になれるわけですが、歳と共にその思いは強くなっても身体が言うことをきかなくなります。

能の大成者、世阿弥の能楽論「風姿花伝」の第一に「年来稽古条々」というものがあります。
人生50年といわれた室町時代、世阿弥は人生を7歳から7分割し、自らの限界を知る心こそが、奥義に達した者の心得であると述べています。60歳まで現役で舞台に立ち、80歳まで生きた世阿弥。
44、45歳の頃は、 「もしこの頃まで失せざらん花こそ、まことの花にてはあるべけれ」とこの時期、衰えてなお、輝くものがあれば、それこそが「まことの花」なのだと述べています。
そして「我が身を知る心、得たる人の心なるべし」と自らの限界を知る心こそが、奥義に達した者の心得であると述べています。
「風姿花伝」の最初に、「稽古の条々、大概しるし置くところ」として、
「一、好色、博奕、大酒。三重戒、是、個人の掟」
「二、稽古は強かれ、情識は無かれ、となり」とあります。一は言うに及ばずだが、二の言葉はじっくりと吟味しなければなりません。
「情識」とは、慢心に基づく強情な心という意味です。世阿弥は、繰り返しこのことばを使っています。世阿弥にとって、「芸能とは人生をかけて完成するものだ」という考えなのです。
そして「年来稽古条々」に書かれた最後の言葉は「『老骨に残りし花』の証拠なり」とあります。
父観阿弥が52歳の時、最後に舞った能を見た時の世阿弥の言葉です。
老いて頂上を極めても、それは決して到達点ではなく、常に謙虚な気持ちで、さらに上を目指して稽古することが必要だと、世阿弥は何度も繰り返し語っています。
誠に慢心ほど、人を朽ちさせるものはありません。

「劣化」を超えて「醜悪」になってしまったこの日本社会、指導者は言い訳・弁解のオンパレードです。彼らの心の底には、いずれも慢心があります。慢心とは、偏った思考に遮られ、己が見えず、激しい思い込み、おごり高ぶった心をいいます。慢心の裏には猜疑心とギラつく野望、劣等意識が常にあります。
中途半端な「慢心」は実は一番質が悪い。日本だけではなく、朝鮮半島の、韓国の文在寅大統領と北朝鮮の金正恩・朝鮮労働党委員長の2人も危うい。
本業の不動産投資の延長のような思いつきで、保護貿易を固執しすぎるトランプ大統領。結局、自分で自分の首を絞めそうな予感です。
強烈な中華思想をその基本として習近平国家主席が主導する「一帯一路」構想。莫大な先行投資をして、背負い込んだ負債は地球規模の「負債」となっています。今後も米中両大国の経済の軋轢は更に厳しくなり、今のところ両者妥協する気配はない。果たしてどうなりますか。
実は、米中の対立は、日本が一番とばっちりを受けることになります。日本は「劣化」を超えて、はや「醜悪」が、いろいろなところで顕在化していますが、「日本」という国家力としてはまだ世界に影響力を持っています。ここ数年がその限界点と思っています。
だからこそいまここで、日本の基層精神性をじっくりと考えてみることが必要です。その考え方の基本とプロセスは、私の「言挙げぞする」をご覧下さい。下手な学者の言よりも、遙かに役立つと自負しています。(是は「慢心」ではありません。年のため)
何れにしても「ごまめの歯軋り」と落ち込まず、根気強く「言挙げ」し、私のようにいろいろと主張する人間がいてもいいと思っています。
「老骨に 残りし一葉 紅冴えて 散るも残るも 霧の天風(あまかぜ)」(省吾)
2018.11.20  春吉省吾 ⓒ

写真説明●2018.11.20東京世田谷区の公園で
今年の東京の落葉樹は、腐ったような紅葉が多い。

●2018.11.3福島市の「福島県立美術館」に続く遊歩道。毎年この時期に訪れるが、鮮やかさは、東京都心とは随分違うが、今年の紅葉は劣化していると感じた。

●2018.11.3福島県立美術館
義父と義母の法事のあと、時間が余ったので常設の「ルオー」と面会にいったのだが、「ルオー」の数点は外されていた。特別展の「佐藤玄々」展が開かれていた。東京日本橋三越の「天女像(まごころ像)」 は有名だが、木彫、彩色木彫、ブロンズ、墨絵とジャンルも広く、凄い才能の持ち主と知った。小物の木彫は絶妙の存在感があった。「基本」が出来ていれば、職人としての表現が異なるだけだ。能力があれば、表現に素材の壁はないのだろう。
玄々の哲理を見た思いがした。
穏やかな日曜日の午後、観覧者は疎ら。じっくり鑑賞できたのはいいが、はたして喜んでいいのかどうか?まあ、東京の展覧会は中途半端に知ったかぶりした人集りを見に行くようで、疲れるし、かまびすしい。思いがけない「特別展」、私にとっては最高の展覧会だった。

●2018.11.19近くの散歩道。寒椿。紅白。