夏の入道雲ともお別れです。 入道雲は、未来の躍動と希望を強烈に印象づけるようで、細田守のアニメーション映画には必ず登場する。
酷暑の夏を経験し、入道雲のスケールの大きな自然を経験した、青少年達は、必ず何かを掴んでいると云うその象徴として描かれる。
そんな入道雲の酷暑の夏も終わり、季節は駆け足で秋に向かおうとしている。
「夏の熾火」のDMも仕上がって、後は、上・下「本」が仕上がって来るのを待つだけになった。
次の執筆の資料を漁りながら、事務所の片付け、DMの宛名書き、お世話になった方々への為書きなど、作業は山ほどあるし、我が社の決算事務もある。
今日一年ぶりで、渋谷の町へ出た。現在の渋谷の繁華街には魅力を感じないので滅多に行かない。年一回の健康診断の時だけで、その場所は246を越した桜ヶ丘。30年前に5年ほど我社が借りていた、事務所の直ぐ近くである。
一年に一度しか足を運ばないから、テナントが変わっているのがはっきり判る。
私の記憶の中で変わっていない場所を見つけて、「ああ変わったな」と判る。
マークシティの裏側には、今も「のんべい橫丁」はあるが、30年前はこの辺り一帯が、不思議な異空間であった。今のように作られたレトロと云うよりも、卑猥さを隠そうとしても隠しきれずに漏れてしまったような、緊張感と危うさの残った、やくざな空間であった。今は確かに表面は「健全」を繕っているが、果たしてどうだろう。この辺りに飲みに出なくなったから何とも言えないが……。
我々は現状を抜本的に変えようとしない。例えそれが上辺だけの『健全』と薄々気付いていても、そうである。
みんな横並びでやっていれば、当面、不安、恐れ、おののきなどが緩和される。
年齢を重ね、財産や社会的地位など守るべきものがあると尚更、現実から目を逸らしてしまう。
人の感性は鈍感になり、形式化し想像力を失う。
まさに「ゆでガエル」状態?
煮えたぎった鍋にカエルを入れようとしても逃げてしまうが、水が入った鍋であればカエルはおとなしく入る。この鍋を火にかけゆっくりと温度を上げていっても、カエルは自分がゆでられていることに気づかず、最後には「ゆでがえる」になってしまうという有名な話にそっくりである。
ところで、政府、それを取り巻く外郭団体、都道府県などの組織の指導者は馬鹿でも良いが、大局観を持たない腹の据わらない似非指導者が一番たちが悪い。
大局観とは、個癖に固まった意固地な思いこみではない。
悪い事に、そういう傍には、剃刀のように頭は切れるが、自己顕示欲が強く、小賢しく、目先のことしか考えられない典型的な官僚たちがまるでコバンザメのように必ず付き従っている。
彼等に操られ、誰も責任の所在を明らかにせずに曖昧なまま事は進み、いつの間にか既成事実が出来上がってしまう。
今日本で起こっている様々な事象は全てこれである。
もっとも、中国、韓国、ロシア、米国にしたって、指導者の資質はひどいものだが、日本はもっと劣化して現在の為体(ていたらく)である。要は、頭の良いスタッフをどのように使いこなせるかと云うことに尽きる。(政治家は官僚の使い走りではない・本末転倒)
多様なものの見方をして、現実を直視するためには、自分の頭で考えられる「思考回路」を持っていないと、大変なことになる。(心身経営学で20年来主張しているとおり)
スマホも携帯も、出来るだけ使いたくないというのが私の本音で、意識して必要最小限にとどめている。
山手線や地下鉄の乗客の皆が一斉にスマホや携帯を開いている光景は不気味で異常だと思うのだが、誰もおかしいと考えなくなった時、社会は「異常に鈍感になっている」。
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