●2019.6月上梓決定。長い名前の随筆集。恣意的に作り上げられた数値に惑わされずに、我々はこの先どう生きればいいか。
「東京2020」の危うさも当然知っておくべきでしょう。
●2019.3.21 立花眞理さんとシュターミッツ四重奏団の演奏会。
彼女とは中学校の同級生。この先も円熟の演奏を期待しています。春吉も頑張らなくっちゃ!!
●2019.3.27 福島県立美術館。「若冲」展。
背景の山は「信夫山」。開催から2日目で、観覧者は多かったですが、それでも東京の展覧会の4分の1程でした。展覧会の観賞は地方に限る。
それにしても東京の展覧会は何故あんなに混雑するのだろうか?観賞マナーも悪いし、日本人がそんなに教養高くなっているとは、とても思えないのだが。
●2019.4.3 ここから都庁や新宿高層ビル群を背景に観る桜は絶景です。毎年恒例の私の定点観測地です。
●2019.4.6 第55回東京都居合道大会。東京武道館。
●2019.4.6 第55回東京都居合道大会。六段勝ち抜き戦。いざ決戦!! 前列手前が私。
4月も半ばになり、近くの玉川上水跡の散歩道の桜も、半分は葉桜になりました。過去に何回か記載しましたが、私はこの小さく瑞々しい若葉の緑が大好きです。
今年の花粉症は例年になく酷いことになり、風邪と重なって、3月早々に耳鼻科で診察を受けました。春先にピークがくるスギやヒノキ科の花粉の飛散もようやく収まるのが4月後半なので、これからは4日で一箱消費したティシュ-の減りも押さえられるでしょう。
3月に入って新作の取材や、確定申告などすべて一人で行い、税務署に提出しました。21日には銀座王子ホールで開催された、ピアニストの立花眞理さんのコンサート(私の中学時代の友人でもう何年も開催しています)に行き、翌週には故郷福島市で93歳で元気で頑張っている母の顔を見て、先祖の墓参りや、親戚を廻り、夜は友人達と食事会をするなど、忙しい時間を過ごしました。4月6日には、第55回東京都居合道大会の六段の部で「努力賞」の賞状をいただきました。
弓道も居合の稽古もそこそこ励み、それ以外の日には、1日8千歩を目標に、ジョギング・ウォーキングをしています。今年の花粉症は酷かったのですが、身体を動かしているおかげて、頭の働きは良いようです。今まで以上にしっかり物書きに集中しています。
●最後の纏めに入った「秋の遠音」は、江戸後期・幕末明治初期の壮大な物語です。多くの日本人に知って欲しいその時々の歴史の時間と空間を背景にした情感豊かな作品です。
維新後の凄まじい弾圧で、長州藩においてすら、幕末の正確な資料は残っていません。錯綜した幕末から明治初期を客観的に見つめ、その中で生きた登場人物の息遣いが、読者の一人一人に響くような作品をと願いつつ、書き進めています。
政治的な複雑な動きも、所詮、人間的な嫉妬や怨恨、偶然と妥協の重なり合った現象で、後世「英雄」と称される歴史上の人物は、たまたま「時代」という歴史の創造主がその人物を、そこに置き、そのように働かせたと思えてなりません。
「秋の遠音」は弱小一万石下手渡藩・三池藩の物語です。主人公はその家臣達です。このような「超長編」が、日本の歴史時代小説の中に、正当な地位を勝ち得ることを願いながら書き込んでいます。
脱稿の予定が当初の予定より大きく遅れていますが、やはりこれだけのスケールの作品を纏めるには熟成期間が必要でした。その間に、偶然巡りあった資料や、思いがけない人間関係などを発見することが出来ました。時代を超えて息長く読み継がれる物語になれば嬉しいです。
●6月上梓を目指して、長いタイトルの随筆を書いています。タイトルは「まとわりつく 嫌~な感じを取り除くために 『今』言挙げぞする」というものです。戦後75年の総括と、東京オリンピックの危うさなど、今我々がきちっと認識しておくべきことを私なりに分析し、「定常経済」という視点から、この先我々は現実にどう対処し生きるべきか、日本人の根源的な事々を確認して、行動や意志決定のよすがにして欲しいと纏めています。
●それから「初音の裏殿」という幕末を舞台にする中編シリーズ時代小説も、楽しんで書き進めています。あらゆる策を講じて目的を完遂する、主人公の痛快な生き方を堪能頂けると思っています。おそらく読者の想像を絶するダイナミックな連作になるでしょう。
健康な日常生活を心かげれば、あと十数年はそこそこクリアな頭で、想像力も枯渇しないだろうという自負もありますが、「歴史物語」の書き手として、人間の明日は予測がつかないということを誰よりも知っているつもりです。何時どうなるか判らない人生の面白さと畏怖、そして強烈な自己信頼の精神を、主人公を通して表現したいと思います。
ところで、4月1日に、次の年号が「令和」と決まりましたが、史上初めて漢籍ではなく、国書から採用されたと言うことで話題になっています。今回の「令和」は万葉集を典拠とした「梅花の宴」という漢文の序文から取られたということです。
その年号策定に与ったお一人に中西進先生の名があがっていました。ご本人は自らが答申したとはこの先も、決して仰有らないでしょうが……。
実は中西先生の「万葉集」の講義を今から、48年前に数回聴講したことがあります。以来、中西先生の「万葉集」の書籍は何冊か読んでおりました。でも失礼ながらその当時は、文化勲章をお取りになるような先生とは思っていませんでした。質問事項は覚えていませんが1度だけ質問したことがあります。近寄ると煙草の臭いが強く漂っていたことを記憶しています。
それにしても、日本の国書からの引用で、日本の文化が初めて元号になったという喜び方は、あまりに軽薄なような気がします。様々な思想を取り入れて、日本文化を練りあげた我が日本民族は優秀ですが、中国文明を無視し、短絡に日本特殊論に陥るのは能がありません。
一方で、「梅花の宴」は、単に平板な梅を愛でる宴会ではなく、そこには長屋王政権の倒壊と藤原四兄弟(藤原摂関家の先祖)の激しい政治的対立があり、長屋王に引き立てられた大伴旅人が九州太宰府で抱いた怨みの思いがその背後にあるという主張です。だからそこからの「令和」の引用は問題だと言う学者もおります。その言に従うと、万葉集そのものが、「古事記」「日本書紀」とは異なる意味で、紛れもなく王権の書であったというのです。
古事記の成立も、日本書紀の成立も、天皇制確立のため、厳しい国際環境(中国大陸、朝鮮半島の情勢)のなかで生まれたもので、当然「万葉集」も、視点は違うが、そのような成立の意図があったことはあえて言挙げせずとも当然のことなのです。
古代は穏やかで平和だったというのは我々の安直な考えで、当時の政治の動きは、今以上に激しく厳しい時代でもあったのです。(拙著「言挙げぞする」155P~184P参照)
だからこそ、その制約の中で、残り伝えられた古代の人々の歌歌が我々の心に迫るのです。そこを、矮小にねじ曲げてはいけません。
聯合艦隊司令長官の山本五十六は、愛読していた「万葉集」を旗艦長門に持ちこんだことは有名ですが、太平洋戦争に出征し、無念にも命を散らした多くの英霊も「万葉集」、あるいは「万葉抄」を携行しました。それは、古代から今に至るまで、日本人の心の琴線に触れる本質がそこにあり、戦争という生死の淵で「万葉集」が自己を深く見つめる支えになっていた証なのです。
政府発表によると「令和」とは、人々が美しく心を寄せ合う中で文化が生まれ育ち、梅の花のように、日本人が明日への希望を咲かせる国である様にと祈って、命名されたと言います。
しかしこの先、平成よりももっと厳しい現実に、我々は立ち向かわなければなりません。
だからこそ、あまり尖りすぎた理窟に拘らず、心を柔らかく持ち、日本人としての豊かな感情を醸成してくれるであろう「万葉」の世界に、虚心に遊んでみるのも大切な事だと思うのです。 2019.4.12 春吉省吾 ⓒ
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