「秋の遠音」と古河市兵衛  VOL.75

令和2年6月に上梓した、四季四部作・長編歴史時代小説「秋の遠音」の中で、主人公の吉村春明とはおよそ好対照な生き方をした古河市兵衛について記載する。
立花種恭、屋山外記、塚本源吾、森泰、半蔵、など個性豊かな人物が登場するが、古河市兵衛も「秋の遠音」の中で強烈な個性を発揮する。明治初期の経営者として、功成り名を遂げた一人である。 古河財閥を作り上げたのは皆様ご存じの通りだ。春明と関わった間のことは殆ど書き尽くしたので、今回は、「秋の遠音」以降の市兵衛について記述する。
生糸・蚕種の一大集積地であった福島城下は、古河市兵衛が井筒屋の番頭として幕末の数年活躍したが、その後の商才の基本を養った場所だ。福島県史や福島市史にはまったく記載されずに、福島の郷土史家達たちが見落としていたのは何とも残念だが、彼の名誉のために福島のためにも「秋の遠音」にしっかり記載した。
この後、市兵衞に薫陶を受けた配下の者や、仲間達が福島と生糸蚕種輸出の窓口の横浜を結んで、日本の製糸業界をリードした。
市兵衞の性格は「秋の遠音」大胆で粘着質で、同様な性格を持つ渋沢栄一とは馬が合ったらしい。
市兵衞と正妻の鶴子との間には、子供が出来ず、渋沢の紹介で、陸奥宗光の二男潤吉を古河家の二代目とした。しかし35歳で早世してしまい、その後、柳橋の芸妓・小清との間に出来た虎之助が古河家の三代目となった。この虎之助が市兵衛の意志を継いで、古河財閥を築き上げた。

「秋の遠音」でも、その雰囲気は伝えたが、古河市兵衛、実は、大変な女好きだ。しかしそれに輪を掛けてタチが悪いのは渋沢栄一だ。かの伊藤博文も明治天皇に女遊びを叱責されても改めなかったという。明治の有名人の中で、この3人はベスト(ワースト)スリーであろう。
しかし栄一に限っては、明治以降の日本資本主義発展の大御所なので、下半身を言いつのるのは御法度とされた。戸籍上12人が正式な子供としてカウントされている彼等が、その醜聞をもみ消した。渋沢は戸籍にも載らない50人とも100人ともいわれる多くの子供がいたとされる。 もみ消すのは大変だったはずだ。次年度のNHKの大河の主人公のようだが、その部分は大幅にカットされるだろう、本当はそこが人間くさくて本当の「物語」になるのだが……。
渋沢のような人物が一万円札になったり、大河小説の主役になるのだから、何でもありなのだ。 私は、一万円札には二・二六事件で銃弾に倒れた、高橋是清こそふさわしいと思う。
栄一は汚職デパートの長州閥の親分である井上馨とも上手に付き合い、江戸七分積金などの裏の経済的取引など「清濁全て呑み込んだ」男だ。資金の源泉がなければ、慈善事業は出来ない。
栄一は68歳で、妾に子供を産ませたが、「いゃあ、若気の至りで」と開き直るのだから半端ではない。
人間に英雄なし、人は裏表を持ち、表が輝かしい人物は必ず、その裏も深い闇を持つ。私はそう思って歴史時代小説を執筆している。その闇を痛快時代小説にしようと、「初音の裏殿」を現在執筆中だ。

さて、市兵衛は小野組倒産を乗り越えて、鉱山業にそのベクトルを移し、一度は枯渇したとみられた足尾銅山の採掘事業に邁進する。
ところで、足尾銅山というと、必ず「足尾鉱毒事件」と田中正造(1841~1913年) が結びつく。
足尾銅山鉱毒問題に取り組み、生涯を鉱毒問題と治水改良運動に関わった人物で、その不屈な意志は私も絶対の尊敬を払う一人だ。そこを誤解しないでほしい。
城山三郎氏の小説に「辛酸」という、足尾銅山の鉱毒事件に対して、田中正造の最後の抵抗運動と谷中村の農民の苦悩を描いた物語がある。また「雄気堂々」という渋沢栄一を主人公にした物語も書いている。栄一は市兵衛の足尾鉱山事業の当初からの協同出資者として参加している。いわば敵と味方の物語を一人の作者が書くのである。(実は、事実をきちっと把握しているとその制作活動はそう難しくはない)
作家は、その対象人物に対して、光を当て、どのようにも物語を作れる。そこには当然作家の意志が反映される。しかし歴史の正確な時系列をきっちりと調べ、併せて当時の社会情勢を具体的に正確に把握していることが大前提となる。

今回、小学国語、中学、高校の日本史の検定教科書を数冊見てみたら、必要以上に市兵衛が貶められている。驚いた。既に、体系的に調べている方がいるので、ご興味があればそちらのサイトをご覧頂きたい。「足尾鉱毒事件自由討論会」というブログである。
検定教科書の内容は少しずつ、事実がねじ曲げられている。実に巧妙なねじ曲げ方をしている。 歴史検定を主管する文部省、教科書検定委員の故意改変と言わざるを得ない。
かく言う私も「秋の遠音」執筆にあたって、市兵衛を詳しく調べ始める20年前までは、古河市兵衛は公害の元凶者だと思っていた。しかし、当時置かれた状況は、日本政府の国策であり、それに対して、市兵衛は最善の対応をしていたことがわかった。当然古河の限界もある。
戦後我々は田中正造はヒーローで、市兵衛は「鉱毒王」で、公害をまき散らした元祖のような教育を受けてきた。勿論古河鉱山の公害の責任は逃れられないが、現在の「公害」基準とは当時の状況とは違うのだ。戦後、東京大学を中心とする社会主義の学者達が、格好の材料として、日本の国語教材や、歴史教科書を「検定」と称して、正確でない記載をしている。
それらの誤謬(故意か調査不足かはわからない)がいつのまにか「事実」になって反証されずに、義務教育の教科書となり、我々の頭に長年刷り込まれ、どこか変だなという事すら想像できず、思考停止になってしまった。
調べていくとわかるが、足尾銅山鉱毒問題については、既に江戸時代の中期から問題になっていて元文5年(1740年)の文献にも
「渡良瀬川にて鮎漁のことつかまつり候えども、足尾銅山でき候後、鮎取り方少々に相成り……」と既に鉱毒がでていたことがわかる。江戸期の足尾銅山の最盛期は1860年代だが、廃坑同然の鉱山に目をつけ、市兵衛が足尾銅山の経営に着手したのは明治10年(1877年)で、数年間は全く成果が出なかった。ようやく明治14年(1881年)に待望の有望鉱脈を発見。その後、探鉱技術の進歩によって次々と有望鉱脈が発見された。しかし、公害に対する認識などない時代で増産を続けた。
明治政府は明治30年(1897年)に公害防止工事を古河に命令し、当時考えられる技術を投入し鉱毒予防工事も、当時の金額で100万円もの巨費を投じて、鉱毒除害工事を実施し、被害民の損害も賠償してきた。
しかし、江戸期から150年も続く鉱毒の堆積は、水害が起これば、忽ち渡良瀬川に流れるという悪循環が繰り返された。
被害者から見れば、それは不満なことにはちがいないのだが、現実の悲惨さ故にいたずらに事実を過大にしてはいけない。正造であってもそうである。
正造は国会への質問書にこう記した。(明治34年3月23日)
「予防命令なるものは一つも事実に行われるものなし。ただ足尾銅山の工事は人目を幻惑し、……人民請願の口術を塞ぎ、加害者の悪事を増大ならしめたるのみ」
これら正造の言葉は、政府と古河に対して正確な言葉ではない。政治家正造の誇張の言葉だ。
戦後、イギリス人のケネス・スプリングという日本文学研究者が、1946年連合軍の一員として来日し、後に田中正造の事を調べ、田中正造の生き方に心酔し「田中正造伝」を書いた。そのケネスであっても、正造の質問文を引用してこう批判した。
「ここの所で、正造が政府と古河に対して公正を欠いているのはほぼ確実である。なるほど工事5年間、改善されたきざしがほとんど、というかまったく見られなかったことは事実だ。しかし明治35年(1902年)には鉱毒は急速に減少し始めたのであり、その原因の少なくとも一端は、明治30年(1897年)の政府の予防命令によるものであった事は間違いない」
ストロングによれば、明治35年の大洪水の後、新しい肥沃な土壌が、それまでの鉱毒被害地の一面を薄く覆っていたと記載している。イギリス人の覚めた見方こそ、正しい歴史の認識だ。
市兵衛は、明治36年( 1903年 ) 4月5日にその波乱の一生を終えたが、無念の思いもあったろう。

明治28年に博文館という出版会社が、総合雑誌「太陽」を創刊した。日本で最初の、評論を含む総合雑誌で、大正前期まで「雑誌の王様」と言われた。その「太陽」で、創立12年記念として明治32年に「明治12傑」という特集を行い、全国の10万人の読者に呼びかけ、大冊に纏めた。政治家・文学家・科学家・軍人・教育家・法律科・医家・美術科・商業家・工業家・農業家という分野で、それぞれに順位をつけたが、全ての分野での得票順位は、
①古河市兵衛 23,782票 ②伊藤博文 20,394票 ③ 大隈重信 19,291票 ④福沢諭吉 18,422票 ⑤ 鳩山和夫 18,006票 ⑥加藤弘之 17,141票で、渋沢は15,485票であった。
今は有名になった田中正造は鉱毒事件で時の人であったが、当時の国民には人気がなかった。
国民は馬鹿ではない。堅忍不抜の資質を高く評価した当時最大部数の経済雑誌「実業之日本」は、
「古河市兵衛氏も(足尾の鉱毒)決して放任する精神はない由で、いよいよ実行できる範囲内で救済策を講じることにしたようである」と記述している。(明治34年12月1日)
これは、先のストロングの伝記記述と一致する。
また、市兵衞は前述した様に、陸奥宗光、渋沢栄一とは親しくしたが、それ以外の明治の政財界の人物とは殆ど付き合いもなかった。市兵衛の死後、息子の虎之助は、当時内務大臣だった原敬に懇請されて、五年間で105万円を3つの大学設立の為に寄付した。1つは、札幌農学校から東北帝国大学農家大学、後の「北海道大学」の設立資金を拠出し、また現在の「東北帝国大学」も古河が26万円を寄付し、宮城県の15万円の、計41万円で設立され。結果的に国費なしで創設された。また「九州帝国大学」も古河家の寄付によっている。古河家の寄付がなかったら三大学の設立は、大幅にずれ込んだか、設立不可になっていた。
市兵衛の人格は、虎之助を通じて、きちっと伝わったのである。
「秋の遠音」を通して、私は市兵衛の為人をしっかりと書いたつもりだ。
私は市兵衛を等身大の男として書くことを主眼とした。彼を書いていると、やることをやってもなお「鉱毒王」という看板を背負わされ、じっと耐えた市兵衛の心情を思う。そしていい加減に批判する者達に、私は腹立たしさを覚えたものだ。
私は、作家として古河市兵衛という男を「秋の遠音」の中で、活躍させることが出来て誇らしく思う。「運鈍根」(成功するには、幸運と根気と、鈍いくらいの粘り強さの三つが必要である)という信念を貫いた、若き古河市兵衛を描いたのは、春吉省吾だと胸を張りたい。

特記すべき事は、当時の日本国民は市兵衛のことを正しく評価していたことだ。人間は常に刷り込みを受けると、物事を正確に把握することが出来なくなる。例えば新型コロナの情報など、新聞や地上波テレビの情報を見た限りでは、その不整合に頭をかしげる。中途半端な知識を振りかざして情報発信する側は、その責任の重さなど一切お構いなしの「マッチポンプ」の面々だ。我々はそれに対して、しっかりと正確に事の本質を掴む勉強をしなければならないのだが、そういう勉強する「場」がないのもまた痛恨事だ。
2020年10月20日  春吉省吾ⓒ

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