はじめに
今回皆様に配信する随筆は、我が師、「同根会」代表長谷川肇(智泉)先生が、今から40年前(1984年・昭和59年)、会報に投稿されたものです。
40年前の記述ですが、今読み返すと、その内容が一層鋭く我々に響いてきます。
我々はことの本質を掴みきれないまま、闇雲に経済的な利得を追いかけ、流されるままにここまで来てしまった結果が、今の体たらくなのかと思うことしきりです。
長谷川先生の文章は、話し言葉と同じように、歯切れがよく、現状分析から、物事の本質に迫る切り口は見事です。
というわけで、2024年の新年にあたり、長谷川先生がお書きになった随筆を皆さんにお読みいただき、本来日本人の持つ「陽性な気質」を失うことなく、目先の欲得、我欲に溺れることなく、「誤情報」に慌てふためくことなく、自らの思考と行動で、正しい情勢判断をし、真剣に生ききるための参考にしていただきたいと掲載するものです。
平成7年(1995年)2月に「ゆさふり~長谷川智泉活理集~」という冊子を「同根会」の20周年の節目に、上梓しました。当時編集委員として作業に当たりましたが、この随筆は、長文のため掲載しませんでした。
少数の方にしか目に触れていないこの随筆を、40年の沈黙を経て、多くの方々にお読みいただけるのは、弟子の一人として嬉しい限りです。
(なお本文の数ヶ所の言いまわしにつき、編者・春吉省吾が修正した部分があります。ご了承ください)
長谷川肇(智泉)先生のこと
長谷川先生は昭和5年(1930年1月3日)のお生まれで、平成28年(2017年3月3日)に永眠されました。87歳の生涯でした。
●昭和27年(1952年)NHKに入社(アナウンス部)、TVの「貴方のメロディー」の企画から初代司会者となり、高橋圭三アナウンサーの後の「私の秘密」を担当、「ポケットサイエンス」「囲碁将棋の時間」「明るい農村」「明日の健康」など、スポーツ番組も含めて殆どのジャンルの番組司会を担当しました。
●昭和43年(1968年)NHK(チーフアナウンサー)退社
「長谷川肇モーニングショー」(NET・10チャンネル)の司会を担当。アシスタントに下重暁子(元NHKアナウンサー)、ばばこういち(フリージャーナリスト、元フジテレビ製作スタッフ)
先生には、業界の裏話や、タレントの素行など様々なお話を伺いました。私(春吉)も、一時期TV業界に関わっていたこともあって、首肯することが多く役立ちました。
●昭和44年(1969年)中小企業庁提供「明日の経営戦略」。18年間にわたり2000社を超える企業・商店街など全国に取材して放送。鋭い視点のインタビューは中小企業の意識向上に大いに役立ちました。
「同根会」という経営研究会について
昭和49年(1974年)、経営研究会「同根会」発足。上場企業、中小企業100社の経営者、経営幹部が参加。令和2年(2020年)解散。
同根会の会員第一号は本田技研工業(株)、取締役最高顧問・本田宗一郎氏です。
(株)アシックス・鬼塚喜八郎氏、吉田工業(株)YKK・吉田忠雄氏、(株)藤田商店・日本マクドナルド・藤田 田氏、(株)丸八真綿・岡本一八氏などの著名な創業者もおいでになります。
月一度の「同根会」は講師をお呼びして講演の後、長谷川代表とのディスカッションをする、会員相互の情報交換と相互映発の場として例会が開催されました。
また長谷川先生の年2回、10講座による、情勢判断学、戦略戦術論、マーケティング論を深く学ぶための「実学講座」を開催しました。経営のための共通用語を学び、「経営則人生」という高度な人間学を、それぞれの経営に取り入れるための「同根哲学」の実践を確たるものにする講座でした。
「日本社会における指導者像」・同根会の考える指導者像
この記述について
前半は全寮制のある高等学校が発行している雑誌に「日本社会の指導者像」(高等学校の管理者・教師が対象)というテーマで、執筆を依頼されたものの全文であり、後半はそのなかでも補足の要があると思われたところを加筆したものである。
(春吉註・この内容は、「全寮制の高等学校」の管理職や教職員の先生方には、僭越ですが、些かレベルが高いと思っています。日本的哲理を学んでいない方たちには長谷川先生の言外に含むことはなかなか理解できないだろうと思うからです。
現在の日本の政治家、官僚、企業経営者でも、長谷川先生の言葉の深さを理解できる方は殆どいないようです。この内容の本質を理解して実践していたら、敗戦後80年、現在のような体たらくは起こりえなかったはずなのです)
型から学ぶ
テレビ朝日系列で日曜日の朝放映している「明日の経営戦略」は、放送が開始されてから20年という民放でも数少ない長寿番組の一つである。私がレポーターを担当してからも、すてに15年が経ち、訪問した企業は800社を超えることになった。その中には一部上場の創業社長をはじめ、中堅企業、さらには家内工業的な零細企業まで、幅広い層と、あらゆる業種が含まれている。
そのいずれにも企業の命運をかけ壮絶なドラマの歴史があり、そこから体得した経営の「常識」(コモンセンス)がある。
同根会とは、こうした経営の実際体験から勝ち取った鍛えられ磨きぬかれた経営の「常識」ともいうべきものを集積し、それを共に学ばんとして10半年前に設立した会である。
日常、目の前に起る困難な問題をばりばり解決する上で大切なものは、この鍛えぬかれた「常識」というものであり、これこそ生きた学識というものである。
今日、200社におよぶ経営者の方々が参加し、月例会は体験発表とそれにかかわる活発な討論が重ねられている。こうした経営者の努力は当然企業業績の上に結実し、昨年末には各分野で受賞される方々が続出することとなった。アシックスの鬼塚喜八郎社長(現在の「アシックス」の創業者)は毎日経済人賞を、食料品小売店全国コンクールで農林水産大臣賞を受賞された方や、その他の会員受賞者を合わせれば10賞ははかるく超えることになる。
まったく賞と関係のないのは、代表の私ぐらいなもので、まさに代表は会員の〈助手の立場〉が、その使命であるといえよう。
規模の大小を問わずそれぞれの経営者は優れた指導者であり、その思考行動には当然、普遍性と特殊性の両局面が見られる。特殊性はその人の持ち味ともいうべきもので、どんなに素晴らしいことでも他人がその外形を真似ただけでは失敗に終るといったものである。従って本会では〈型を学び型から学ぶ〉と教えている。型を生みだしたもの、型に現われる以前のもの、その人の事物のとらえ方、思考の枠組、さらには人生観にいたる深い洞察があり、それをわがものとして自分独自のものを生み出す、まさに同根会は、これを学ぶということである。
人生こそ心身浄化、向上の場
同根会は指導者としての使命を持つ方々の集まりであり、使命達成にあたっての根本を学ぶ会ともいえる。人それぞれに使命があり、その使命達成のための一能ありとする。その一能を発見し発揮しつつ世に貢献し、そのプロセスを通して自己完成をはかるというのが、その生き方である。原理原則もまた本来人間には備わっているものと考えるので教義教則とか、べしべからずといった戒律も設ける必要はないとしている。
とかく修業、道場という言葉を口にする集団の陥りがちなところは、最高の理想像のみを睨みつめ、あれもいけない、これもだめ、これも面白くないとして毛嫌いすることである。そのため経験は極度に貧弱、そこに育った人々の天分は極度に未発達のままに残り、万有進化の大いなる流れの中に置き去りにされることとなる。
空、絶対を理想とする禅の修業は、無心になるためのさまざまな工夫がこらされているところは、まことに驚くべきであるが、しかし理想はあくまで理想であり人間である以上とてもそこには到達出来るものではない。
もちろん学ぶ点も大いにあるわけで、それを学ぶことにやぶさかでないが、出来もせぬことを目指すのはまことに愚かなことといわなくてはならぬ。
なによりも現世には現世の生活があり、その実生活のあらゆる経験を積みつつ一歩一歩、向上の道をいくのが人生である。この地上こそ心身浄化向上の場であり人格の完成が人生の意義であろう。
本来、修業の第一はこの心身の浄化にあり、そのためには日常の〈真の反省〉を心がけることの重要性を説いている。
「かんながらの道」の鎮魂帰神の行法は、わが民族性にまことに合致したものと考えられるが、その鎮魂の目指す心身の浄化としての精神統一の実修も、しっかりとした指導者を得ることが第一であり、単独実修はむしろ危険といわなくてはならない。
とすれは、かかる特殊な修業を心がけるより〈真の反省〉を心がけ、そのためには先ず、真の反省の仕方を学ぶことである。
本会の、ことの出発とその基本にすえられた考え方の一端を述べたのは、同根会代表として執筆を依頼されたことと、自分の体験から出た指導者の条件を申しあげて、ご参考に供すべきと考えたからである。
活力は落差にある
指導者たるものは成功失敗は戦略上のことと心得て大局観を養うことが必須条件となる。したがって
●日本社会における指導者は歴史的観点に立ち、日本固有の文明を十分自覚した人であること
●指導者たるものは使命感をもち新しい時代の新しい人生指導原理を確立することの急務であることを痛感する人であること
が前提となろう。
東西両文明を融合し終えたわが民族は、その固有の文明を自覚することによって民族としての本来の使命に目覚めることになろう。数千年にわたる仏教、西欧文明という巨大な外来文明を受け入れるにあたり自己を至らぬものとしてきた民族が、いまようやく融合したところの固有文明を自覚するという大転換期にさしかかっている。
以上は本会の指導者たらんとするものの根本になくてはならぬ常識の一端にすぎない。
ことに当り、事物を分析することは有効な作業の一つである。分析を通して事物の優点欠点のあるところを解明することはよいが、あまりに分析に深く立ち入り綜合の観点を忘れると、ことの本質を見失うことになることは注意せねばならない。
ことの本質が本当に〈わかる〉ということは直観力のなせるわざであり、直観力は綜合の過程に生ずるものである。その綜合の力は強靱な精神的エネルギーに支えられる以上、心身の浄化と同時に心身を鍛えることの必要性がここにある。
心と肉体は相対不離の関係にあるからである。直観力を養うためにも真の反省は不可欠のものであるが、その反省と同時に深く思考を重ねなければならない。
思考は心のはたらきであり、思考を練ることは理性を磨き鍛えることになるからである。肉体を動かし汗を出し身体の老廃物を出す、その一方で心を鎮め沈思黙考するという動と静の落差のなかから直感力は養われると考えている。
指導者はこの直観力のある者が有資格者といってよかろう。
同根会もこの10年、多くの変化を遂げてきた。
すでに記述した内容のそれぞれは実は本会が歩んできたプロセスから学んだものであり、その曲折、過ちを通して再構築してきたものである。初期のころは最高と思われる理想を追うあまり、「べしべからず」といった硬直した思考にとかくとらわれ、しかも、それでよしとする〈うぬぼれ〉まで犯しがちである。指導者がしらずしておかす罪科穢(つみとがけがれ)というものかもしれぬが、恐ろしいことである。
最近の会合は厳しいなかにも、ゆとりのある明るく愉快な会となった。
たとえば勉強会のあと、銘酒を楽しむ一時が設けられている。幸い会には優れた酒造元が多く参加しているので、本醸造、吟醸、大吟醸といった香り、のどこし、酔いざめの素晴らしい日本酒がとどけられる。
本物を味わって日本の心を識ろう、といった名目をかかげてはいるが、これは〈かみごと〉における直会(なおらいかい)であり、厳しさのあとの楽しさが用意され、そこに落差が生じ、その落差から新らしい活力が生れるということである。
行住坐臥(ぎょうじゅうざが )これ修業とはいえ、あまりに張りつめた心境のみでは現世生活は営み難いところとなる。
人々は特殊な世界の特殊な修業僧を目指しているわけではない、この世の中は普遍性が主流であり特殊性は一部にすぎないのだ。
時代性を無視してはならない
かつて将棋の大山康晴名人がこう語ったことがある。
「根性では永続きするものではありません。私が今日あるのは将棋が好きで好きでたまらなかったからです。だからこそ他人からみたら、とても出来ないと思われる努力、精進も出来たと思います」と。
自己本来の一能を発見し、それを発揮せんとするとき精進も努力も当然のこととなるということであろう。精進努力は強制すべきものではなく自覚より発する自らなる行為である。
オートバイに続き小型車でも「ホンダ」の名を世界的なものとした本田宗一郎氏は「嫌いなことをやってうまくいくはずがないね。事業をやるにも先天的に向かない人がやったら本人も苦しむかもしれんが従業員を不幸にすることになるよ。子供の教育でね、ぼくが親に云いたいことは、親の役目は子供を幸福にすることで、それには子どもの長所短所をよく見定めて、子供の好きな方向で、それぞれが将来社会のお役にどうたてるかを子供と一緒に考えて学校を選ばなきゃだめだっていうことですよ」と語り、さらに指導者について
「ぼくが、ここまでやってこれたのは、大勢の人がその分野分野でヘルプしてくれたからじゃないかなあ、ぼく一人ではどうにもならなかった。最後は人間性ということになるのかな、指導者は自分の考えがどんなに良くても大勢の人に納得してもらえなくちゃ何も出来ない。“あいつの考えならいやだ”と嫌われてしまってはだめなんで、“いっしょにやっていこう”という気持ちを大勢の人が持ってくれるようでないとね。
“やっぱり、へまもやるじゃないか、同じ人間同志だ”という気持ち、だから自分のへまを隠す社長なんかあまりたいしたことはないね」
と、平易な話のなかに味わい深い人間心理を語って下さったものである。
お二人とも本会の顧問会員としていろいろご教示をいただいているわけであるが、お会いするたびに感ずるのは〈底ぬけに明るく肩の力がすうっと抜けている〉ところである。
では気楽さばかりかというとそうではない。本会設立にあたり4年がかりで本田氏に語ってきた私に
「長谷川さん、本気だね」と、ピカリと光らせた眼力を私は昨日のように思い出す。ここにもメリハリの精神発動があり、その落差こそエネルギーと直観したものである。
人を動かす力とは、その人の全人格から発するこのエネルギーであると思うがどうであろうか。
それが五感を通して相手の深奥に迫り、しらず心を動かすということになる。
指導者の眼にみえないこの力が人を動かし協力させ、事を成すといってよかろう。
多くの人の協力を得られるためには〈相手を認める〉ところから出発しなければならない。現在の日本社会がどうあろうとも事物の生成発展には多くの理由があってそうなった以上、それを認めた上で事を成すという〈時代性の認識〉がなければうまくいかないものである。
この世に存在するものは一つとして単独に存在し得るものはない、多くの〈こと、もの〉とのかかわりあいのなかにあるわけである。
本会顧問、世界経済調査会理事長木内信胤先生はこのことを「事物は重層構造のなかにある」と表現され、これからの宗教は「宗教らしくない宗教ではないか……」と語っておられる。
紙数の都合で結論を急ぐことにするが、本会顧問の法則史字の大家、村山節氏によると、21世紀は東西両文明の交替期であるという。そしてわが国は東西両文明を融合した固有文明の保有民族である。人類の歴史的流れは精神主義への転換期とも考えられる、いずれも大転換期を暗示している。
こうした歴史的観点と真の人間観に立脚した人生指導原理の確立はまさに急務といわなければならない。
あらゆるところで行きづまりをみせる世界情勢は、こうした大きな歴史の流れのなかにあり、人類は“新しい時代の新しい思想”を生みだすための苦しみを味わうことであろう。
日本社会の指導者は今日このときに生をうけたことに深い感動を憶え、ひたすらそれぞれの使命を果たすべきであろう。わが国は企業規模の大小にかかわらずそれぞれの分野にすぐれた指導者をもっている、それが日本経済の活力となり世界でもっとも安定した経済社会をつくってきたわけである。
昨年1月(昭和58年・1983年)に大阪で開かれた中小企業サミットには31ヶ国150人の方々が世界中から集まり、日本の中小企業政策を学びたいと熱心な希望がきかれた。おそらく今後、世界の眼は日本に注がれ日本研究はますますさかんになることだろう。それが刺激要因ともなって日本人は自己のもつ特質に気づくはずである。
徹底した相対的な事物のとらえ方、二元にして一元の人間観、そして万葉の心〈優しさ〉等々、日本人が本来の自己をとり戻し21世紀にむけて、世界人類に貢献し得る人材育成を、そのロマンとする指導者が一人でも多く出ることを祈っている。
理想への架け橋を(加筆)
その(一) 気楽になるために
ことに当っては、まず〈相手を認める〉ところからはじめなければならないという事は、本会ではすでに何回も語ってきたところである。
思考を重ね、ある結論を得ると短兵急にそのまま現実に適用しようとしがちなのは、その人が未熟である証左であり、いささか酷な云い方となるが〈自己中心的〉といわれても仕方のないところであろう。すべての〈こと、もの〉は、それなりの多くのかかわり合いと、多くの理由があってそうなっているのであるから、それなりに認めた上で、〈どこから、どのようにして、ことをはじめてあげたらよかろうか〉と考えてこそ、ことはうまく運ぶものである。
否定し分析し綜合するという事物解明の方法は結構ではあるが、それから得た結論を、そのまま現実にあてはめようと急いではならない。
〈こうあるべきはずのもの〉という結論が得られたら、それはそれとして現実に立ち戻り現実を一応認めた上で、さてどうするかと考えることである。
このとき、解明にあたって現実に対した当初とは、すでに〈心の余裕〉が違っているはずである。一応の結論を得るまでの思考行動のプロセスがその余裕を生みだしているのである。この余裕をもってもう一度、現実をみつめなおし、その背後の事情を認め対処の方策を考え実行すれば、時の流れにそって事物はその結論の方向に動きだすものである。そこを認めず事をなせば、有形無形の反発を招来するのみで、本当にうまくいくということにはならない。
そこまで対処の方策をほどこせば、あとは事物そのものが今度は変化していく番である。こちらは気楽な気分でその変化を見守っているというぐらいで丁度よかろう。
“人事を尽くして天命を待つ”とは、この気楽さがあってこそといえる。
その(二)根本治療と対症療法
世を否定し時代を否定し悲憤慷慨してやまない人がいる。
そういう人に限って一人よがりの言動におちいりがちである。なぜ一人よがりになるのか考察してみると、自己のかち得た理想に酔い〈相手を、世相を認める〉ことを一切しないというところに原因がある。つまり理想に酔った酔眼、もうろうたる眼では、目前の事物の、よってきたる原因なぞ、まったく見えなくなっている。
幸福に酔い理想に酔うと、〈人生の理を忘れ、天の理のみに片寄る〉といった片手落ちに陥る。天の理、地の理の交点を識ることが知恵であり、その上に立って事をはかることが要諦である。
その辺の理が本当にわかれば〈悪すら認める〉ゆとりが生れるものである。
そこにはすでに善悪の別を超えた世界がある。善悪とともに向上進歩の道をいくといった全く別の世界は、悪を許し悪に迎合するということではない。悪というものの存在の意味を深く理解するという事であり、であるからこそ対立を超えてどう生かすかというところに自己が立てるのである。悪はただ憎むべき存在とみてはならないということであり、それでは悪にとらわれ、その境涯を超えることは出来ないというものである。
病気になる、病状が出る、その病状にとらわれ憎めば、その病状さえ除去されればよしといった短絡的な考えとなり、その病状を招いた多くの原因のあることを忘れてしまうのと同じである。
世の中が悪い、教育がなっていないといっても、その背後には実に多くの理由があってそうなっているのであり〈根本治療〉とは、その背後の原因を取り除くところにある。
ガン細胞を切除してはたして完全治療につながるかどうか、切除は増殖を防ぐための緊急対策の一つであり、と同時にガンを招来した多くの原因をさぐり、それへの対処の方策を講じてこそ根本治療といえるのではなかろうか。
切除は対症療法であり背後の原因除去が根本治癒であろう。根本治療を忘れれば第二、第二の重い病をまねくということにもなりかねないと知るべきである。
本会では、抗生物質をはじめとする薬物の乱用、酸性食品のとりすぎ、ストレスの蓄積、自己中心の強欲、など心療内科を含めての注意を喚起してきた。
病状を認めるとはその背後の因果関係を識るということであり、根本治療への第一歩である。
その(三)理想と架け橋
同根会はそれぞれの天分を発見し、その天分を発揮しつつ、人間形成をはかるとする人々の集りである。
人間は未発達の魂の持主であり〈永遠に向上進歩の道をいく〉と考えているから、すくなくともこの人生で〈これでよし〉とする時はないと心得ている。
学校教育、社員教育においてもまた同じである。わずかな期間でその教育の理想を実現せんとあせってはならない。そのあせりはしらず生徒への強制となり、ために生徒の不平不満は次第に内向して、みせかけの従順の姿を見せるといった最悪の事態となる。強制が外れれば以前より性の悪い人間になるという場合がしばしばある。
善の強要は悪を生むといってよい。しかし、それは善から生ずるものではなく強要した指導者の人間性がそうさせるのである。
「これほど正しいと思うことを生徒に分らせようと懸命の努力をしているのに、実効があがらない」
という場合は、教えている内容ではなく、その人自身に問題があるといってよい。
本来、強制は一時的対症療法である教育指導には肉体的訓練と精神的指導の両面から考えねばならぬが、肉体訓練といっても修業僧のごとき、滝にうたれ食を断つといった、極端な坐禅のようなものを組んで、眠りまでも克服するというような異常な特殊な訓練肉体に対する一つの苦痛を与えるというようなことをする必要は全くないといってよい。
まずは自分のことは自分でするという身の廻りの整理整頓が適度な運動であり、さらに必要と思われる若干の肉体訓練をすればこと足りるものである。それより精神的な措置として〈反省の在り方〉、〈深く思考を重ねる〉といった理性を磨き鍛えるということの方がはるかに重要であるといえよう。
実はその自覚にもとづいて本人が特殊な肉体訓練の必要性を感じて行う行法であるならば、それはそれなりに有効な手段とはなろうが、あくまでこれもまた本人の自覚をともなったものでなければ、厳しい肉体訓練もたんなる飾り物にすぎないものとなる。
理想を追い、事を急ぐあまり、現実から理想への永い架け橋を忘れては現実にそぐわない人間をつくるということになろう。
その架け橋こそ人生そのものであることを忘れてはならない。
人生を生きる上において求められる人間像は、生き生きと生きている人間味あふれる人間であって、枯木寒厳さながらの修業僧まがいの人間では断じてない。
真剣になるときは真剣になり、遊ぶときは我が日本の陽性民族の特徴として素裸になって踊るもよしとするのが同根会の人物像である。
真剣になったその凝りをほどくのが〈なおらい〉という、いわば宴会であり、そこに本当の楽しさ愉快さが生れるのである。いや生きる上での活力はその落差から生じるといってよかろう。
社内に、校内に明るい陽気が充ちるようでなければ、その教育指導は間違っているといってよい。
社内に校内に心からなる笑い声がきこえないようなところには活力はなく、活力のないところには人は住めるはずがない。
社内の活性化、学校内の活性化とは真に自由なる心の広がりと向上心、そして〈あそびの効用〉があってはじめて生ずるものである。
「べしべからず」で人が育つわけがない。
指導者に人間的幅のあるやなしやが問われるところであろう。
そして教育指導とは向上進歩への手がかり足がかりを与えることであり、人生の永い架け橋にいざなうことである。人生という一生を通して理想への道を一歩一歩向上していくのは本人のなすべきことであり、指導者がその理想をふりかざして強制するかごときことは、人間観の欠除のしからしめるところといえよう。
以上、長谷川先生の40年前の随筆を御紹介しました。
長谷川先生の教えの先に・春吉省吾
この長谷川先生の文章は、40年前のものとは思えないほど本質を抉っています。
世界の指導者達の、あきれるほどの二枚舌と、保身と我欲の言動を見るに、今、先生が生きておられたら、どんな言葉を発するかと思うのです。
私がまだ40代の頃、月に一度電話が掛かってきました。
大きい事件や経済変動の時局について「君はどう思うかね」とか、私がイベントや経営コンサルタント業をしていたことから「○○の業界はどうかね」とか質問されました。仕事が立て込んでいるときなどは、ぞんざいな対応をしたことを、今になって反省していますが、大抵先生の話術に乗せられて、長電話になってしまうのです。段々乗せられて、本音を話すと、「そのとおり」と仰って、更に深く尋ねてくるのです。この「電話指導」によって、大分鍛えられたなと、感謝しています。
平成30年(2018年)5月に、同根会で薫陶を受けた恩返しとして、哲理的随筆集「言挙げぞする」を上梓しました。体調を壊したこともあって、長谷川先生の生前に、謹呈することが出来なかったのが心残りでした。
今回、先生の随筆をスキャナーで取り込み、校正しながら「この先、先生の哲理を更に進めつつ、崖っぷちに追い込まれた日本人の生存権の危機(殆どの人達はそのような危機があることを認識していない)を回避するにはどうすればいいのか」と考えながら作業をしていました。そうこうするうちに2023年から2024年に年が変わりました。
長谷川先生の随筆が書かれた1984年までの日本は、私を含めて日本は何処までも経済的に成長していくのだということを信じて疑わなかった時代でした。ところが、翌年の1985年8月の日本航空123便墜落事故が通称御巣鷹の尾根で起こりました。不思議な事故で未だに原因は謎です。
更に同年9月には、膨れ上がった日本の対米貿易黒字の削減の強引な「プラザ合意」がなされ、その後の「失われた30年」(このプラザ合意を起点にすれば、「失われた40年」ということになります)が始まります。
当時の中曽根康弘首相、竹下登蔵相は、これら隠された秘密を抱えたまま、鬼籍に入りました。
その後、現在に至るまで、日本人がせっせと働き続けて蓄財した「虎の子」は、ウォール街(ネオコンの搾取も含む・アメリカの軍・官ハゲタカ集団)、ロンドン・シティ、更には、China資本にいいようにされて、気付いてみたら、日本の庶民は無防備なまま投げ出されてしまったという状況です。
日本政府の推し進めている「日本国憲法」の自民党の改正案の「緊急事態条項」や「97条」の基本的人権尊重の条文の全面削除、はては、諸外国では殆どがワクチン接種は停止されているのに、見切り発車のレプリコン(次世代mRNA)ワクチン承認、食糧自供率の問題、エネルギー政策など、国民の危機管理とは真逆政策、あるいは無策、そのいい加減さは目を覆うほどです。
日本は、世界の金融グローバリスト達の「草刈り場」となっています。既存の腐った行政組織や既存の政党に任せていたら、我々国民は「命の危険」に瀕してしまいます。
特に日本の中小企業の数は、全体の99.7パーセントを占め、就労人員は70パーセントを超します。インボイス制度発足により、中小企業(中規模企業・小規模企業)を育成するどころか、政府・財務省は中小企業は、不効率で不要という政策をとり続けています。中小企業の育成・保護は日本の物作り、サービスの生命線なのですが、ここのままでは途絶えてしまいます。
外国人の不法入国、不法滞在者対策なども、過激な人権左派の活動によって、日本人の生存権が侵される危険も生じています。万一、大陸で異変が起きたら、押し寄せる移民によって、日本はどうしようもなくなります。核武装云々の論議をする前に、日本人の生活を守る具体的な戦略・戦術が必要なのです。
日本人を取りまく環境が40年前とは比較にならないほど劣化してしまいました。理由は簡単です。敗戦後80年、ことの本質を知らず、あるいは知っていても、それにどう対処するのかという覚悟を持つリーダーがいなかったのです。勿論、多くの日本人がことの本質を学ばず(あるいは、敗戦後のGHQの巧妙な統治政策の呪縛が解けないまま、マスメデイアの情報を鵜呑みにして)、多くの日本人が愚民化し今に至っています。
この現状を打破するには、我々日本人が覚醒するしかありません。それがなければ厳しいです。現状の社会の枠組みをそのままにして、暫時社会を改善していくのは、もはや不可能です。日本政府は我々を守ってはくれないようです。
権力を把握している者からの権力委譲では、改革を成し遂げることは不可能です。現状の外側に新しいゴールを設定しないと、ここまで劣化した社会組織を変革することは出来ません。崩壊は常に内部の腐敗から起こっているからです。政・官・財・メディアの、権力を持つ組織内部が、錆び付いてしまっています。
日本の場合、長谷川先生の随筆にあるように、極端な変革は好みません。大天才・織田信長は、変革を急ぎすぎました。
私は、もう一人の大天才、空海・弘法大師の、仏教者としての業績の他に、教育者、社会事業(満濃池の治水工事など)、醍醐天皇のもとでの政治手腕を発揮した空海の空前絶後の能力を高く評価しています。空海のような大天才が、日本の政治のトップにいれば、日本は変わるだろうと思うのです。空海の人誑し(ひとたらし・良い意味で使っています)は、政治交渉術においても、やはり大天才の面目躍如です。
アメリカをはじめとした欧米諸国、そしてロシアやChinaを相手に、空海のような人物が政治の中枢にいれば、日本国民の安全安心を担保してくれただろうなと夢想しています。遣唐使として入唐時に見せた交渉術、恵果をはじめ唐の文人たちを忽ち虜にしてしまうその天分は驚くほどです。
南都法相宗の高僧徳一は、会津の慧日寺を開創した僧ですが、最澄や空海に教学論争を挑みました。最澄は徳一の誘いに乗ってしまい三乗一乗教学論争を戦わせ、その対応に苦慮したのです。その点空海は、実に如才なく立ち廻り、その煩わしさから逃れ、本来すべきことを成し遂げました。こういう大天才は、日本史上、空海を措いていないのです。現世に、大天才「空海」出でよ、と祈りにも似た感情を抱いています。
最澄、空海、徳一と三人の仏法論戦を、小説にしたいといろいろ資料を集め、現地も取材したことがありましたが、論文ならいざ知らず、それを小説仕立てで面白く記述するのは難しく断念しました。
70歳になってから、世界を視野にいれて活躍する主人公を作りあげ、新たな歴史時代小説を書こうと決意しました。皇室の血を引く、天才主人公・宇良守金吾の活躍を通して、幕末期、世界の中の日本という切り口で「初音の裏殿」シリーズを企画し、現在第3巻を執筆中です。
2024年、決意を新たに気を引き締めて、今年一年頑張ります。
読者の皆様には、健康で、充実した一年になりますよう、心よりお祈り申し上げます。
令和六年(2024年)元旦
春吉省吾
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